「ご馳走様でした。今日作られた栗きんとんもあっさりと、それでいて貴女の様に朗らかで口の中を楽しませる様な美味しさでしたよ。流石神子様ですね」
綺麗に平らげられた皿の上。汚れひとつない箸。微笑む屠自古。
では家事の続きをしますねと君は頭を下げ、忙しく去っていく。光の中に溶けていく薄く青い後姿。
それを見るたびに、私の胸はいつも締め付けられたように痛むんだ。
















        『連理の枝  ネーム:菊花さつき・作:古河三人』














私こと豊聡耳神子の嫁である蘇我屠自古は物静かで、それでいて芯の太い逞しい人間だった。
私が自らを封することになった折も咎めず騒がず静かに受け入れ、また彼女の縁者の思惑で自らの足が蘇らなくなったときにもそれを責めずに「この方が便利だ」と笑ってさえいた。
人はそれを器量が良いというかもしれない。度量が広いというかもしれない。良妻賢母の鑑だとか、嫁に恵まれたとか言うかもしれない。
実際に私もそう思う。屠自古より素晴らしい女性を四海探しても見つけれる気がしないし、探すつもりだって毛頭ない。
だけどそんな欠点の見つからない私の屠自古の中にも、一つだけ。胸の奥につっかえて剥がれない小骨のような違和感があった。
それは声。
偏に声と言っても、実際に発せられるものではない。いわば内から発せられる抑えきれない感情のような声。つまりは欲だ。
私には人の欲を耳にするという能力がある。
が、屠自古のそれを、私は全く聞いたことがない。愛する前も誓った後も今こうしてる再び共に過ごしている一時さえもだ。
それが私には悔しくて悔しくて堪らなかった。
彼女の喜んでいる姿が見たい。彼女の内に秘めた欲が、感情がはじけ飛ぶ姿を目の当たりにしたい。
常にそう願ってきたのだが、その願いが聞き届けられたことは一度たりともなかった。
ああ、今私と同じ能力を持つ者がいれば、きっとこの声でその耳の鼓膜が破けてしまうだろう。
それぐらいにその欲望は膨れに膨れ上がっていた。
な、の、で。さっそく今朝、自慢の栗きんとんという必殺の武器を携えてみたのだが、結果は……先ほどの通りだった。

「むむ……」

壁に背を靠れかけさせながら腕を組んで思案してみる。これが私の昔からの癖なのだ。
これをすれば大体の答えはすぐに浮かぶ。が、今回の難題はどこぞの姫のように難解だ。
さっぱり浮かばぬ。
正直な所、この感情を覚えたのはとても最近の話だった。
具体的には封印より目覚めてから少し後。今の場所に居を構えた辺りからだ。
それより前は人の寝ている頭の上に作られた金ぴか住職の妖怪屋敷と一悶着していた為か、私自身に余裕があまりなく、彼女の心の機微を具に感じ取ることを怠っていた。
それでも勿論彼女を傷つけることなどしなかったが、いやしなかったと思う。しなかったよ、ね。ん?
確かあの頃は見知らぬ神社から紅白だの青白だのの巫女が来たり、魔法使いが来たり可愛らしいのが来たりと煩わしくて、屠自古や布都にも前線に立って戦ってもらったり、私自身神社に入り浸って井戸端会議をしたりとしていましたが。
……えーっと、あれ? 私、屠自古の事をないがしろにしている……?
い、いや、そんなことはない。決してそんなことはないぞ!?うん、きっと!
現にさっきも栗きんとん作ったし、今年の冬にもほら!ちゃんと屠自古に似合う首掛けを贈ったんだ!
大丈夫だぞ!元気出せ私!
……でも。
先ほどの屠自古の顔には笑みこそあれど、心からの喜びの色は見えなかった気がしたんだ。
それにこれって贈り物を贈って良い気になってしまう典型的なダメ亭主なのでは……?

「い、いやいやいや断じて違う!違うぞ私ィィィ!」
「何が違うんですか神子様?」
「ウォォォ!」

飛び跳ねて驚く私の背後に小さい毬のような愛らしい女人。

「なんだ布都ですか」
「はい、布都です! なんですか? 神子様悩み事ですか? 布都ならばタチドコロに解決して神子様の顔を曇らせる病を取り除いて見せますよ!」

少々ぞんざいな扱いをしたにも関わらず、全く気にする様子を見せずにいつもの謎の自信を見せつけてくれる布都。
これがこの娘の良い所だ。

「屠自古もこれくらい分かりやすければいいのですがね」
「屠自古!? 屠自古の奴が何か粗相を!?」
「おっと、つい口に出してしまっていましたか」

あ、やばい、無意識だった。寝ている間に妖怪からうつされたか。

「些細な事ですよ。忘れてください」
「いえ! 神子様の災いの露を掃うのが我の役目です! どーんと話してみてください!どーんと!」

跳ね返る事無い胸を、もとい、頼りしてくれと胸をポンと叩く布都。
この娘も生前から私に佳く仕えて、そしてよく支えてくれていた。
無鉄砲で独断的で己の思考のままに暴走するけれど、自分の軸にブレずに常に私を信じてくれている。彼女も大切な仲間の一人だ。
それに布都になら、屠自古の最も近しい身内である布都になら、求めている答えに近づけるかもしれない
私は少しだけ思案した後、布都の提案に甘えてみる事にした。




数分後。


「成程そう言う事でしたか…、ふむ」

先ほどの私の様に渋い顔の布都が。
……駄目か。

「貴女にも、やはり分かりませんか」
「ええ。私にはなぜ神子様が悩んでいるのかがわかりません」

そう言ってのける布都。
時々分からない事を言い出すこの子の事だ。
私は聞き返す。

「……と、いいますと?」
「だって神子様に愛して頂いて捧げて頂いて、嬉しくない者など居るのでしょうか? 少なくとも私は嬉しさで三日は寝れない自信がありますね!」

と、指をピンと三本に立てる布都。根拠のない自信は彼女の専売特許だ。
そしてまたウンウンと唸りながら悩み顔を見せてくる。
「やはり屠自古が頑固者過ぎるから」とか「私が喝を入れましょう」とか言ってくれている。
成程、彼女は屠自古が照れ隠しをしているだけだと見ているようだった。
彼女の心の色を覗いてみてもその言葉に悪意も他意も邪念もさえも浮かんで居ない。
つまり、これは布都が心から思っている事。所謂彼女の本心本音だ。
それは私が今一番欲しているモノにとても、とてもよく似た形をしている。
それに布都の言いたい事は分かる。彼女が私の為を思って言ってくれていることもとてもよく知っている。
けれども。

「有難う御座います」

ごめん。私が欲しかったのはそれじゃなかったみたいだ。

「その言葉、しかと私の胸に仕舞っておきましょう」

本当に、ごめん。




◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



正午過ぎ。
私は霊廟を飛び出してとある場所へと向かっていた。その場所は霊廟からもほど近く、掘って登って蓋開けて二分と言ったところだろうか。
とはいえ既にそこまでの道のりが出来ているので、今回はそこまで歩いて向かっていた。
道中、先ほど別れた布都に対する不義理が胸を痛める。
彼女に私が見せた笑顔はその場繕いの笑顔だ。言葉にも重みはなく、その中に優しさもない。
もしかしたら、布都も気付いているかもしれない。
でも、彼女は笑い返してくれた。
「神子様の力になる事が我にとって最上の喜びですから」とこんな私に言ってくれた。
その事実が胸を痛めた。
だからこそ、このモヤモヤは早く解決したかった。
自分勝手な解釈だけれど、それが布都に対する償いになる気もした。

「ふー」

布で汗を拭い、近くに茂みに潜り込む私。
久しぶりに地上に出てくると暑くてしょうがない。
滝のように流れる汗がポタポタ落ちて地面に吸収されていくのが見える。
これがいわゆる近世の猛暑というやつか。太陽め。
などとぶちぶち愚痴っていると

「だぁっってさぁ…」

ひやりとした冷気とともに跳ね返るような声が聞こえる。
茂みの中から、私は顔を少しだけ浮き上がらせてそちらの方を見た。
視線の先には頭巾頭の少女にしがみ付くように甘えるセーラー服にキュロットの少女。
彼女が私が探していた人物、村紗水蜜だ。

「そんなこと言っても駄目に決まってるわよ、諦めなさいって」
「今回限り! ね? 今回限りだからさァ…」

彼女も屠自古と同じ亡霊に所属する妖怪だ。
直接本人から伺ったことはないが、彼女の持つひやりとした気配と心の色が霊としての特性を感じさせる。
ただし、彼女は屠自古とは正反対なくらいに明朗快活で単純明快だ。
それは彼女自身がまだ幼いころに亡くなったことも手伝っているのかもしれないが、普段より纏っている霊としての冷気を覆い隠すくらいの暖かい奔放さを持ち合わせている。
私の目に見える色は暖色。具体的に例えれば橙や朱色にも近い。
あの明るさが屠自古にもあれば、と思ったが、それもそれで違和感があるので私はそれ以上考えるのをやめた。

「そういってアンタはまたやるでしょーが。却下却下」
「へーんだ!ケチケチ! 一輪は入道使いじゃなくて妖怪貧乏性だ!」

しかし、彼女は霊の中でもかなり異質だ。
基本的に霊は種類を問わずに、穏やかか飄々としているか無頓着のどれかの性格をしている。
理由は定かではないが、現世から離れた存在になった為にそういう風になったのかもしれない。
現に霊廟の周りにいた神霊たちもこの例に漏れず、自由にふよふよ浮いていた。
だが、私の目の前に居るこの村紗という霊は他とは大きく違った。
その行動は人を巻き込み、その行動は時に人を喜ばせ、そしてその行動で時に人を困らせる。
いわば他人と交流することに秀でている、今までには全く見たことのない霊だ。
彼女だけが例外なのだろうか。彼女と他の霊と何が一体違うのだろうか。
彼女と、私の屠自古とは一体何が違うというのだろうか。

ざぶんと再び茂みの中に戻って、私は息をひそめて考える。
どうすれば屠自古を彼女のように明るくできるか。どうすれば屠自古の本当の気持ちを見る事ができるか。
結論はすぐに出た。
目に見えて分かる違いだったから、というのもある。
頭で何度か否定してみる。
が、やはりその結論にしか至らなかった。
これしかないのか。これで本当に屠自古の喜ぶ姿が見れるのか。
私の心ははち切れそうなくらいに不安で満たされていくが、体はどうやら違ったみたいだ。
気が付いたら、私は霊廟へと向けて走り出していた。

「……村紗、晩御飯抜きね」
「ああああん、一輪!いや、一輪さま!一輪お姉様!今日も美しいからごはん抜きだけは! ごはん抜きだけはやめてぇぇぇ…ッ」





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夕暮れ。とはいっても太陽の姿はない。
広い廟の中庭には人の気配もなく、風さえも吹かないから音さえない。
おかげで私の声を遮るモノは何もなく、私は力の限り叫んだ。

「屠自古! 屠自古!」

着くなり腹の底からあふれ出てくる声。
居てもたってもいられなくなってしまった私の声はどんどんその大きさを増していく。
更に三回ほど叫んだ後、屠自古は間もなく現れた。

「どうなされたのですか?」

そこにあったのは多少困惑の色が浮かんでいたものの、いつもと変わらない屠自古の顔だった。
その顔を見た瞬間、私の瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちた。

「とじこーーーぉぉぉ……」

しがみ付くように、私は屠自古を抱きしめる。
力の限り、きつくきつく抱きしめる。
屠自古はそれに驚く様子も慌てる様子もなく、抱きしめ返してくれたまま頭をなでてくれた。
そして囁くように言ってきた。

「まずは腰かけて。何があったかをゆっくりと教えてくださいますか?」

染み入る声。とても耳心地のいい音。
いつもと変わらないトーンで伝えて来るいつもと変わらない優しい言葉。
とても、とても嬉しい。嬉しいんだけれど…。
私は彼女を抱きしめていた腕を解いて、力なく屠自古が示した岩場に腰かける。

「……私はね、君がわからないんです」
「分からない、ですか?」

屠自古は浮いたまま、首を傾げる。
何の説明もなくこんなことを言われれば誰だって困惑するのは当たり前なのだが、今の私にはそれに気を払う心に余裕さえなかった。
だから思ったことをそのままぶつけ続けてしまう。

「そうだ屠自古。君は今、己に足がほしいと思いませんか?」
「いえ全く」
屠自古は首を振る。
「どうして? あった方が便利じゃないですか」
「そうでもないですよ?」
「人には有った方が私は便利に見えますよ」
「寧ろ無い方が今の私には快適に過ごせていますし。あったって壊れやすいだけですよ。どうなされたのですか神子様」
屠自古はクスリと笑って首をまた振る。
強情な。
「それにほら、布都に頼めばスグにでも戻せるんですよ? なに、私が頼めば必ず布都は応じてくれますよ」
「……私には神子様が仰ってる意味の方がよくわかりません」

その瞬間、初めて彼女の中に赤い色を感じる。
赤は情熱、激情、そして怒りの色。
ああ、私は何をやっているんだろう。
その言葉は一番言いたくない、言ってはならない言葉じゃないか。
今日の私は本当にらしくない。こんな不注意はどこぞのお弟子さんに任せとけばいい事だ。
頭をガリガリっと手早く掻き毟って、大きく息を吸い込み、再び、今度は説明するようにゆっくりと口を開く。

「貴女が、特に辛くもない時に誰かから優しくされたりしたら、心の底から嬉しいですか? それとも鬱陶しく感じてしまいますか?」
「嬉しいですよ、勿論」

屠自古は間を置かずに首を縦に振る。
私もまた、間を置かずに言葉を繋げる。

「例えば私などは誰かの願いを聞き届けることができますが、その能力を知っていてなおされた時にでも、貴女は素直に喜べますか?」

元々、私が誰かの欲を聞いて誰かの願いを叶えるのはその人が喜びに溢れた時の色が見たかったからだった。
人が喜びに溢れた時には白や桃に近い透明度の高い色を見せる。
それがとても鮮やかで、艶やかで、心地よくて、私はその色に長年見せられてきた。
だから、見たかったのだ。
長年私を信じてくれていた最愛の人の、最幸の色を。

「それは打算や思惑で喜べるか、という事ですか?」
「というより感情を見せては支障がある相手の前で己の感情を晒す事ができるか、という事ですね。私の能力の場合、それを意図した行動が出来ます故」

この質問はある意味賭けに近かった。
もしかしたら生前の交流で感情を意図的に閉鎖して足とともに何処かに置いてきてしまったのではないかという、いわば願掛けに近いような推論。
屠自古はそれに「成程」と首を振った。

「まぁ例えばの話、ですが」
「そう、ですね……」

丸めた手を唇当てて考え込む屠自古。
これが千年以上前からの彼女の特有の癖。私が好きな屠自古の癖。
とても面倒な質問をして、彼女を困らせている事は分かっている。
でも聞きたかった。何が何でも聞きたかった。
どうやら私も人並み以上に欲深いようだ。
ずっと見ていたくなるようなポーズを数秒ほど続けた後、屠自古は何か思いついたのか口端を小さく上げてにやりと笑う。

「『太子様』に願いを聞いていただいたのに喜ばない人間など居りませんよ」
「むう……」

近い時で聞き覚えのある言葉。
成程、流石親族。姿かたちは似ていなくても、妙なとこだけ似るもんだ。
と、いう事は。

「では、貴女も三日間寝ずに喜んでくれると?」
「ええ。それが太子様のお望みであれば」

屠自古はふわりと微笑む。
むぅぅぅぅぅぅぅ、違う! 違うんだよゥゥ!
私が知りたいのは君自身なんだよ! 君自身がどう思ってるかなんですよ!
君がそう言ってくれるのは心の底から嬉しいし、今すぐにでも抱きしめてそのまま閨でしっぽりと……おっと自重自重。あっはっはっは。
はぁ……。
どうにも、難しいなぁ。

「あはは、有難う御座います……」

なんとなく微笑みにも力なく、肩も少し落ちぎみになってしまう私。
嬉しい事には変わりないんだけれど、変わりないんだけどさぁ……うむむ。
などと私がウジウジ悩んでると屠自古が

「それでは一つだけ。私から神子様にご助言させて頂いてもよろしいですか?」

と提案してくる。

「優秀な貴女様には不要な助言かと思いますが宜しければ」
「優秀? 私がですか? まさか」

今まで民からはそう世辞を言われて讃えられたことはあった。
けれど、まさか身内に言われるなんて。
なんだかそう思えなくってくすぐったくて、私は思わず否定する。
が、その否定も屠自古は言葉を被せて呑み込む。

「十人の声を聞くこと出来るじゃないですか」
「ああ、それは昔からできるだけの能力です」

きっかけは単純だ。
やんごとない身分に生まれた私の身の回りに来る人間は神童だ鬼児だと世辞を上げ立て持て囃す。
聞かされるのは媚や贖罪や自慢や嘲笑。どうせ子供にはわかるまいと思ったのだろう。
あげく子供の私に人生相談まで持ちかけるものも居た。
人に接するのは私の生き甲斐だし頼られるのも嬉しいが、如何せんその数があまりにも多すぎた。
人の耳は二つしかないし、時も数えて一日に八万と半分くらい刻めない。
もし私が彼ら一人一人と接しながら他の者を待たせていたら、きっとその者は相談に来た事さえ忘れてしまうだろう。
だからと一同にしゃべらせてみたら意外と聞き取れてしまったのだ。
そう、私にとってはただそれだけの事。
だが屠自古はそれだけではないといった。

「神子様は己の才覚と望みだけで一を十に変えれるお方です。それは並の人間には到底真似の出来ぬ事」
「鍛錬を積めばできるかもしれないし、私のように出来るかもしれませんよ?」
「並の人間では欲を聞くことなんてできませんよ。それは神子様しか持ち合わせておりません」
「むぅ」

コロコロと笑う屠自古。
今日の屠自古はなんだか頑固だ。
次第に私も嬉しくなって、なんだか妙に意地になる。
積年の不満がトロりトロりと溶けていくような気がする。
ちくしょう。結局何も変わってないのに。
気が付けば躱されている気がする。
気が付けば絆されている気がする。
なのに、それを嬉しく思っている自分がいる。
ああ。そう言えば屠自古とこんな優しい言い合いするのも随分久しぶりかもしれないなぁ。
でも。

「それでも届かないモノが世の中には有るかもしれません」

現に私はそれに苦悩している。
かつては見れていたと思っていたのに、いつの間にか届かなくなってしまったその心。
まぁ屠自古にゃ口が裂けても言えないけどさ。
言いながら、照れ臭くってなんとなく屠自古に見立てた空に私は手を伸ばす。
どこまでも黒くてどこまでも届かない星々は本当に彼女によく似ていた。
その伸びきった私の腕に屠自古は己の腕を重ね、掌を掴み、優しく指を畳ませてくれる。
最初は一つ。

「一を十にできる方がそれを熟練させた場合どうなるでしょう?」

次に二つ。

「十は百に」

四つ。

「百は万に」

そして私の拳に己の手を添えて。

「万はもう止まる事を知りません」

最後には握ってゆっくりと下してくれた。

「貴女はそれが出来るお方なのです」

私はそれでも首を振る。
屠自古の言葉が信じられないのではない。
もはやただの意地っ張り。

「それは貴女の過剰評価ですよ」

逃げようと背ける顔。
だが、それさえも、屠自古は許してくれない。

「長年貴女を見てきた私からの正当評価ですよ」

私を掴んだ屠自古の両掌から伝わる温もりが私に溶けて、溶かしていくのを私はただただ甘く感受していた。





◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




ややあって、夜。
結局何もしないで寄り添ったまま夜に迎えてしまった。ヘタレめ。
どうにも私は屠自古の事になると奥手だ。
口には出せるし優しさを見せることもできるのに大事なところで一歩引いてしまう。
それ故今日まで悩んで、今日爆発させてしまった。
我ながら極端だ。直さないとなぁ。

と、不意に屠自古が私から離れて浮かび上がる。
忘れていたけれど、ご飯の支度があるそうだ。
私はいらないからこのままでと言ったが、生憎ココにいない身内が腹を鳴らして拡声器なりかねないそうだ。
泣く子と霍青娥は恐ろしいのはよく知っている。
私もしぶしぶ同意し、屠自古が「では」と頭を下げた瞬間、私は彼女をもう一度呼び止めた。

「屠自古」
「はい」
「何れは私たちも連理の枝になれるでしょうか」

連理の枝。
それは報われずに土の中に逝った二人が死してなお枝を通して結ばれる悲恋歌。
私はそれに肖りたくて繋がりたくて腕を伸ばす。
その腕を眺めて屠自古はニコリと笑い

「彼らになるには私達は少々死に遅れました」

そして腕を伸ばしてくれた。

「だから貴女のお力で、今この腕を枝にして頂けますか?」
「ええ、勿論」

再び握り返したその掌に指を絡ませて、私は少しの間温もりを楽しむ事にした。
そういつか、彼女の心の色を知り彼女を優しく抱きしめれる、その時まで。