乾坤札遊戯

○壱
 千と数百年の時を超えて復活を遂げたこの身。
 眠りに就いた時の弱き肉体ではなく、悲願たる『尸解仙』の肉体を得て、目覚めた喜び。
 しかし、変わったのはそれだけではない。
 彼女を取り巻く世界、そして、彼女自身の想い。
 そこには、また新たな喜びもあった。

 ──彼女の名は、豊聡耳神子。
 かつては”聖徳太子”と呼ばれ、その実に超人的な能力を以て政を行い、世を導いてきた。
 そんな彼女が如何にして幻想郷にやって来、受け入れられたか──その経緯については、また別の機会に触れるとしよう。
 彼女は今、幻想郷での新たな暮らしを満喫しているところであった──。


 柔らかい日差し、地上の日差し。
 日向に坐して、ゆっくりと湯呑を傾ける。そして、満足げな溜息と共に、目を細めた。
「妹子が隋で味わったという不思議な飲料──このことでしたか」
 淡い”茶”色の液体から立ち上る香り。決して濃くはなく、上品に鼻をくすぐり、楽しませる。
 霍青娥──神子に道術を教えた仙女であり、青娥娘々と呼ばれている──によると、茶は古来薬として用いられ、そこから嗜好品へと発達したものらしい。
 人間、仙人を問わず、心身と気を健やかに保ち、長命をもたらす。道教にはぴったりの飲料であると言えよう。
 喫茶文化は日本で独自の発展を遂げることとなった。後の世に現れた、茶で客人をもてなすという心──尤も、それに使う茶は今飲んでいるものとは淹れ方・製法が異なるらしいが──は、神子自らの思想にも通ずる部分がある。
 茶とは、”和の心”の体現なのだ。
 いずれにせよ、この茶と言う飲み物は──。
「──とても素晴らしい」
 はぁと吐く息と共に、自然に、笑みがこぼれる。
 神子が存命の頃は、口にするどころか、その存在を知ることすら難しかったもの。隋に遣わした小野妹子が、辛うじて賓客の接待として、時の皇帝より振る舞われた──そんな高貴な飲み物を、今、下々の者も楽に口にすることができる。
 時代は、世界は変わったのだ。
 道教、仏教、神道。
 政治家同士、あるいは、為政者と被支配者。
 人間と、妖怪。
 これらが争う必要の無い世の中が実現していた。
「なればこそ、茶の味佳し」
 目を閉じて、冷めゆく茶の最後の香りを享受する。

 ここ、幻想郷──外界から隔絶され、人間と神々と妖怪が等しく生きる理想郷──に、自分が復活したのは、狙い通りであり、しかし偶然であり、即ち運命であったことだろう。
 新たに仲間として迎え入れられたここで、さて、自分が何を為すべきか。今の神子の思索はそこに向いていた。 
 だが、慌てて考える必要もあるまい。
 ここは平和なのだ。平和のための安全な争いが約束された場所なのだ。ならば、今しばらく、この安寧の裡に茶を味わっても良いではないか──。
「……」
 湯呑の底の茶葉屑をしばし見つめた後、神子はくるりと後ろを向いた。
 いつの間にかそこには、緑色の服を纏い、被冠した女性が控えている。まるで、神子が振り向くのを予想していたかのように。
「ああ、丁度良かった──」
「畏れながら」
 緑服の女は、膝をついて平伏したまま、はきはきとした口調で神子の言葉を遮った。
 その様子は、どうにも妙であった。
 膝と言っても、その姿がはっきりとは見えない。いや、それ以前に、彼女には脚が無いのだ。
 服の裾で隠れてはいるが、その腰から下は白く半透明をしており、まるで餅を伸ばして千切ったかのような形で、二股に分かれているのみ。

 蘇我屠自古。
 かつて、豊聡耳神子に仕えていた釆女(うねめ)、あるいは更衣の一人である。
 今の彼女は、神子のように『尸解仙』──死した後に仙人と化した者──ではなく、あくまでも『亡霊』である。脚がそのように奇妙な形をしているのも、彼女が霊体であるからに他ならない。
 『亡霊』とは、強い念を遺したまま死んだ者が化す。屠自古の場合、死して尚神子に仕えたいという想いこそが、彼女をして亡霊という姿で復活せしめたのであろう。

 さて屠自古は、恭しくもきっぱりと神子に奏上する。
「茶葉が切れてしまっております」
「そうですか」
 その言葉に、神子は微笑みながらも、眉尻を下げた。

 ──切ない。

 僅かに目を伏せる屠自古。
 彼女は、普段は言うべきことはすっぱりと言う性質である。だがそれ故に、場合によっては望まぬこと、神子にとって気分の良くないことをも伝えなければならなくなる──丁度、今のように。
 本来、茶が切れたなどという事は些事であり、大した問題ではない。しかし、例えそうであっても、神子の困った顔を見るのは、彼女にとっては辛いのだ。
 その時であった。
「太子様! それでは我が購って参りましょうか!」
 高くて良く通る声と、どすどすという足音と共に、屋敷の奥からもう一人が姿を現した。屠自古と共に神子に仕える──こちらは亡霊ではなく、神子と同じく尸解仙である──物部布都である。
 然程大きくない身の丈に合うように、裾を短くした狩衣を纏っている。そして、頭には烏帽子。その如何にも快活そうな外見からは少年のようにも思えるが、歴とした少女。そしてまた、卜占を能くする風水師である。
 ずかずかと、屠自古を押し除けるようにして──布都は神子の真正面に片膝を立てて座り、
「どうか、我にお任せを」
 真っ直ぐな瞳で自信満々に笑みを浮かべながら、そう申し述べた。
 横から割って入られた屠自古は、当然面白くない。
「出しゃばるな、物部。私が先に太子様とお話ししていたのだ」
「知らぬな。有能な者がお役に立てばよい、そうであろう?」
(やれやれ、この二人には困りますね──)
 放っておくとまた口喧嘩を始めかねない屠自古と布都──喧嘩する程仲が良い、というのは重々承知してはいるが、にしても少々騒がし過ぎる──を宥めるように、まあまあ、と手を振りながら神子はこう言った。
「気が付いてくれたのは屠自古なのですから、今回は屠自古に任せました」
「はいっ!」
 表情が僅かに明るく、声も僅かに高く。横目でチラと布都を見た後、屠自古はすっと立ち上がる。一方の布都は、ぶぅと頬を膨らませていた。
「屠自古、これを渡しておきましょう」
 神子は、腰の帯に付けていた装飾の金具を取り外すと、差し出された屠自古の手の上に軽く置いた。
「これは……? 太子様の──」
 面喰っている屠自古に、神子は微笑む。
「私には必要の無いものですから、当面はこういうものを切り崩して生活していきましょう。足りなければいつでも言ってください、まだまだ宝物類は残っていますから。……何、私達は尸解仙、貴女は亡霊。欲も無ければ要るものも少なくて済みます。良いことではありませんか──」
 自分の手で、手を包み込むようにして握らせる。そして、まだ少々驚いている様子の屠自古に対し、もう一度、念を押すかのように笑った。
「よしなに」
「……仰せのままに」
 屠自古は深々と一礼して、大祀廟から出ていく。その背に、布都の
「寄り道などせぬようにの! 脚が無いからと言ってふらふらと飛んでいってしまうでないぞ!」
 という、よく分からない悪態らしきものを受けながら。
「さて、では屠自古が戻るまで、私達は何をしていましょうかね──」
「そうですなぁ……碁などは如何でしょう? 我らの、やや寝惚けた頭を動かすにはもってこいですぞ……あ! いえ、別に、太子様が寝惚けているなどと申すつもりはございませぬが!」
 勝手に一人で慌てている布都を見て、思わず神子も笑った。
「気にしないでください。しかし、囲碁とは良い案です」
「! では、早速碁盤を持って参ります!」
 そう言うと、布都も喜び勇んで外へと出て行った。廟の離れに居る青娥に借りに行ったのであろう。

 騒がしかった室内が、一転、静まりかえる。 神子は腰を降ろすと、再び湯呑みの底をじぃと見つめた。
 茶も、囲碁も楽しむことができる時代。
 屠自古と、布都と、大事な人達と寿命を気にせず過ごせる幸せ。
 今日も、そんな平穏な一日になるはず──。


 ──だが。
 その昼、神子が屠自古の姿を見たのは、それが最後であった。


○弐
 日は既に沈みかけ、廟からも赤く染まった地平線が見えている。
「良い色じゃ。明日も好き日になろうかの」
 元気の良い悪戯っ子のように歯を見せて笑いながら、布都はその光景を満足げに見つめていた。
 今や道教の道場である大祀廟は、幻想郷の”どこにでもあってどこでもない場所”に存在している。それは、地上でも天界でもない。言うなれば、新たな”仙界”という次元が幻想郷に誕生した、とでも説明できようか。
 今の神子達は、道教の聖地・峨眉山(がびさん)の頂上に居を構えているつもりで、大祀廟の位置を高所に設定していた。ここは天界も斯くや、の絶景。布都が見事な夕焼けを、幻想郷一の特等席で眺めることができたのも、そのためであった。
「さぁて、それでは、暮れの修行に行くか……」
「布都」
「はっ?」
 背後から突然かけられた、滅多に聞く事の無い声の色。それに、布都の返事は思わず裏返ってしまった。
 振り向くと、そこには重い表情の神子が立っていた。これ程までに物憂げな神子の顔を見るのは、復活して以来初めてのことかもしれない。
 恐る恐る、布都は尋ねる。
「どう……なさいました?」
「屠自古が……帰ってきておりません」
 いつもは泰然と構えている彼女には似つかわしくもなく、そわそわした様子。ははあ、と布都は顎に手を遣り、首を捻った。
「……確かに、遅いですな」
 たかが茶の買い出しにしては、余りにも遅すぎる。
 いや、几帳面な屠自古が何の連絡も寄越さずにぶらぶらしている、というのが既にしておかしい。
「あれ程寄り道をするなと申しましたのに……まあ、昔と違う人里の様子が珍しく、色々見て回っているのでしょう。なァに、いずれ帰ってきましょうぞ」
 安心させようと、布都は出来る限り明るく答えた。だが、神子は首を振るばかり。
「違うのです」
「違う?」
「屠自古の声が聞こえないのです。この幻想郷のどこからも」

 神子は、碁の対局の後、一人で瞑想をしていた。彼女の”『十欲』を聞くことができる能力”で。
 欲を聞くということは、その出本たる人々の本質を知るということ。
 いや、人だけではない。
 幻想郷中の人々の、妖怪の、自然の、全ての存在からの声──例え『言葉』という形は取らずとも、その本質から生じた”声”──それが、神子には届いている。
 即ち、大祀廟に居ながらにして、神子は世界を知ることができるのだ。
 故に分かった。
 屠自古の声が聞こえてこないという事が。
 屠自古が、幻想郷のどこにも居ないという事が。

 亡霊である屠自古の声は、故に他者とは判別しやすい。いなくなってしまったことが、神子にはすぐに察せられた。
「……何か、怒らせるようなことをしてしまったのでしょうか。それとも、私に至らぬ点があったのか」
 神子には悪い癖があった。このような折には、自分の中で早々に結論を出してしまうのだ。あるいは、思い込みが激しいとも言える。あらゆる事を瞬時に理解してしまえる故に、そして無論、それが外れる事もある故の、悪癖であった。
「そ、そのようなことはあり得ませぬ! 太子様の為される事で、我らが怒るなどということは──」
 布都には、俯いた神子がこのまま泣き出してしまうのではないかと思われた。慌てて、子供を宥めるように、あれこれと言葉を尽くす。だが、当然布都にも居場所の見当など付きはしない。
 自らの意思で居なくなったのか、あるいは何か危険に巻き込まれたのか。いずれにしても、居場所が分からないままでは結局安心させることはできない。
 八方塞がりかと思った、その時であった。
「屠自古様の行方……存じておりますよ?」
 突然、声と共に壁から女が生えてきた。まるで、にゅるう、という音でも聞こえてきそうな様子で。
 いや、生えてきた、というのは正確ではない。
 女は、壁を透過して、その上半身を二人に晒しているのだ。そのままするっと下半身まで抜け出すと──不思議な事に、女の形に空いた穴が、見る間に塞がっていく。
 彼女こそが、”壁抜けの邪仙”と称される──。
「青娥……娘々!?」
 名の通り、青い服に薄い羽衣を纏った、妖艶な女性であった。
 世が世なら『傾城』と謳われてもおかしくない程の美貌。透き通るような玉の肌。上品に焚いた香が、躯から微かに立ち上っている。
 涼やかに笑うその顔は、しかし腹の内を読み取らせない仮面のようでもある──。
 二人の道術の師であり、協力者ではあるのだが──神子達ですら彼女の真意は計ることができていない。そんな相手ではあるので、これは助かった、というよりも、不審の念が先に浮かぶのは致し方ない。
「まさか娘々、そなたが何か唆したのではあるまいな!?」
 神子が困っているというのに、そして、自分もあれこれと気を揉んでいるというのに──青娥のその余裕の笑みは気に障る。師である事も忘れて、布都は声を荒げた。
「まあ、何をお疑いになるのかしら。私はただ、あることを屠自古様にお伝えしただけ」
「……”あること”?」
 空中に浮き、寛いだような体勢で微笑みを浮かべたまま、青娥は続ける。
「ええい、勿体ぶるな! 娘々、知っているのなら早く教えてくれても良かろう! 屠自古はどこに居るのじゃ!?」
 声だけでなく鼻息も一層荒く、布都は青娥に詰め寄る。青娥はそれをいなすように、ふふと笑うと、布都の目の前に人差し指を突き出した。
「っ!?」
「太子様、布都様……先程、『幻想郷のどこにも屠自古様の声が聞こえない』、そう仰いましたわよね?」
「……ええ」
「だから、言ったであろう! 太子様のお力は幻想郷の全てを探せるのじゃと!」
「では、答えは既に出ているではありませんか」
 十分に間を取りながら、青娥は二人の顔をじぃっと見つめる。
「屠自古様は恐らく、幻想郷”外”にいらっしゃるのでしょう。そう──地上にいらっしゃらないというのであれば──」
 指先が、ゆっくりと動き──下を指す。
「例えば”地下”とか」
「!!」
 神子もその存在だけは知っている。
 自分達が封印されていたような表層よりも遥かに下──”地底”に、妖怪達の棲む世界があるということを。
「一体何故、そのようなところに?」
「それは──」
 あくまでも落ち着いた口調で、青娥は話を続けた──。


『あら、屠自古様、どちらへ?』
 足取りも軽く──いや、脚などついてはいないから、あくまでも”雰囲気は”、だが──大祀廟から出てきた屠自古の姿を認め、青娥は何の気無しに声をかけた。
『娘々。……何、茶を購いに、人里まで』
 このように、屠自古は神子以外には存外素っ気無いのだ。勿論、青娥の事を本心では信用していないという理由もある。ちなみに布都に対しては、素っ気無いというより必要以上に突っかかってしまう──という辺りから、布都の事をどう思っているかはある程度想像がつく。
 さておき、そんな反応はつゆ気にもせず、青娥は明るく返す。
『まあ、お使いですか。ご苦労様でございます。……して、先立つものはお持ちですか?』
『……無論』
 そう言って、屠自古はぶっきらぼうに、先程神子から渡された金の装飾品を見せた。
 その顔には僅かな陰が差している──と、青娥は見抜いた。

(これは太子様の物。それを手放してしまわなければならないなんて──)
 自分の我儘なのだ。それは分かっている。
 神子が自分の所有物をどうしようが、それは彼女の自由。その件に関して、屠自古がどうこう言えるものではない。
 だが、耐えられない。
 宝物に限らず、大祀廟に備わった全ての物は神子のための物。
 そんな、神子に縁のある物が、自分達の傍から離れていってしまうのは──。

 屠自古の胸中を慮って、青娥はしばし、黙ったままであった。じぃ、と、彼女の顔と、手に持った金を見ながら、何かを思案しているようであった。
『もう良かろう。……では、行って参──』
『少々、勿体無うございますね』
 と、ぼそり、と呟いた。かと思うと、顔を上げ、笑顔を向ける。
『何?』
『これで直接お茶を買うというのは、私にはお勧めできませんわね。これは非常に価値のあるもの。釣りを貰おうとすれば店側が困るでしょうし、かといって「釣りは無用」などと大雑把な買い方をしていたのでは、いくら太子様の宝物があったとしてもすぐに尽きてしまいましょう』
『む……』
 確かに、一理ある。屠自古にしても、神子の宝物を簡単に手放してしまうのは惜しいと思っていたのだから。
『では、どうすれば良い?』
『これを、貨幣に替えるのです。この時代には「質屋」というものがございます。価値ある物を、見合った分のお金に換えてくれるところですわ。……ほら、このような、今流通している通貨に──』
 それを見た途端、屠自古の眼が一瞬にして、大きく見開かれた──。


「……それが、何故地底などへ?」
「私は屠自古様に、この時代の通貨と、地底の事をお話ししたのです。もし、”仮に”ですが──質草無しにお金を手早く得たいのであれば、旧地獄に行くのが得策だ、と。そして、屠自古様はそこに向かわれた──」
「……つまり、屠自古はお金を工面しに行った──と?」
「真意は私如きには分かりません。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。ただ一つ言えるのは──旧地獄【あそこ】には、上手くすれば億万長者ともなれるチャンスがあるということだけ」
「何……ですって? 億万長者ともなれるチャンス……!?」
 余りにも衝撃的な言葉。
 欲の無い尸解仙や亡霊には最も似合わぬもの。
 一体何を思って、屠自古は──。



「いらっしゃい、地上からとはまた珍しいお客人ね。……”ここのこと”をどこで知ったの?」
「さあな。言う必要はあるまい、ここでやるべきことは只一つなのだから」
 石造りの館の中の、更に地下の秘密の一室。
 部屋の壁に掛かった瓦斯灯、その中で燃える青い炎が、ゆらゆらと蠢いて室内を照らす。
 ──屠自古は、そこに居た。
 『地霊殿』。
 旧地獄の統括者たる大妖怪・古明地さとりの居館である。
 表向きは、地底の怨霊達の管理や、地下間欠泉センターの運営を行っているのだが──実は、もう一つの顔があった。
「……そうね。じゃあ、始めましょうか」
 大きめの卓を挟んで、屠自古の向かい側に座る小柄な女性──彼女こそが、この館の主・古明地さとりである──が、指をパチンと鳴らす。すると、傍に控えていた長身の女性が、何やら小さな箱のようなものを持って、二人の脇へとやってきた。
「紹介するわ。この子がディーラーをやってくれる私のペット・空よ。ちょっと鳥頭だけど、素直で良い子なの。もちろん、不器用じゃないし、ポーカーのルールも知ってるわ」
 烏の翼とマントとを背中に負い、艶やかな長い髪をリボンでまとめた少女──霊烏路空は、主の言葉に合わせて、屠自古に対して無邪気に一礼した。
 ピクリ、と屠自古の眉が動く。それを見て、さとりはふふと笑った。
「『お空が私に都合の良いようにイカサマをするかも』、ね。その心配は誰しもするわ」
「……!」
「でも、こればかりは、こちらを信用して、としか言えない。貴女が知っているかどうかは分からないけど──妖怪というものは、『契約』を何よりも大事にするの。”カードに関するイカサマ”は、ここではあり得ない……非合法のカジノであっても、それだけは絶対」
 さとりの口から出た言葉通り。
 旧地獄市街にも賭場はある。しかし、ここ地霊殿で行われる勝負は、限られた者しかその存在を知らない”非合法”のもの。
 上役である冥府の目を盗んで運営される、一般の賭場よりも遥かに高レートな裏カジノ。
 その舞台こそが、地霊殿の秘密の部屋──。
「……良いだろう、信用しよう。いずれにせよ、私にはここで勝負するしかないのだから」
 多少憮然としつつも、屠自古は空から箱を受け取り、シールを破って封を切った。
 初めて見る『トランプ』なる札がどのようなものか、卓上に広げてその一枚一枚をじっくりと観察する。
「そうね、『ポーカーのルールが分からないと勝負にならないし、ましてやトランプを見るのが初めて』ではお困りよね。教えて差し上げるわ──」
「……頼む」
 ──何故、自分がポーカーどころか、トランプすら見た事がない、というのが分かったのだろうか?
 さとりの説明を聞きながらも、屠自古の思考はそこに向いていた。
 確かに、自分はこの後『ポーカー』のルールを教えてくれ、と言おうとしていた。だが、カードを睨んでいた段階で、自分がポーカーについて無知だということが分かったのは何故だろう?
 経験者なら絶対にし得ないような行動を取ってしまったのだろうか?
 いや。
 カードに怪しい点が無いかどうか調べていた、そうとも見えたはずだ。それなのに──。
 さとりは、力を隠している。自分よりも幼い見た目の少女でありながら、何かとんでもない能力を──それを感じながら、屠自古は人生初の大勝負に挑もうとしていた。


○参
「……しかし、解せぬ」
「布都、もう少々心を鎮めなさい。尸解仙となったというに、貴方の欲が届いてきますよ」
「あっ……これは、申し訳ございません!」
 地上から地下への道中ずっと、ぶつぶつと屠自古の文句を言い続けている布都。それを神子は苦笑しながら嗜めた。
 苦笑しながら、というのには理由がある。
『屠自古が心配だ、屠自古に会いたい、屠自古の無事を確認したい』
 神子に聞こえるのは、そんな布都の心の声。だがそれは決して『欲』などではないため、神子の力で聞き取ったものではない。先程の言葉は、神子なりの冗談でもある。
(力を使わずとも、そのぐらい分かりますよ、布都──)
 そう、微笑を浮かべる神子であった。が──その顔はすぐに真剣なものに戻る。
 神子とて、分からないのだ。青娥より大まかな経緯は聞いたとはいえ、屠自古が何故ここ──『旧地獄』などに出かけていったのか。
 ここは彼女達の来るべきところではない。
 欲と怨嗟が積もりに積もり、底の底まで浸み込んだ地。
 忌み嫌われ、虐げられ、地上から追い遣られた妖怪達が住む場所。
 その境遇に同情心が浮かびはした。が、しかし、これ程の欲を、旧地獄の入口の前の時点で身に受けては、それすらも消えてしまいそうだ。
「……厭なところでございますな」
「……ええ」
 布都は立ち止まって荷袋を探ると、筮竹(ぜいちく)を取り出した。丁度よさげな台状の岩を見つけるとそれを卓代わりにし、早速ジャラジャラと音を鳴らして、慣れた手つきで易を立て始める。
「……むむ」
「どうです?」
 心配そうに、神子が尋ねる。
「我が卜占でも、ここは我ら尸解仙にとって最悪の地、との結果に。早う屠自古めを探して連れ帰らないと、良からぬ事が起こりかねませんぞ……」
 筮竹を片付けながらそう言いかけ──神子の顔を見た時、布都はハッとした。
 誰あろう、神子こそが、一番屠自古の事を案じているのだ。
「私達がどうなろうとも、行きましょう」
 静かに、力強く、神子はそう言い放った。

 暗い暗い道を進んでいき、長い長い縦穴を降りていく。
 どこから入ってきたのか、自分が今どこにいるのかも分からなくなりそうな、地下の通路。
 神子も、布都も、口を開くことはない。只々、薄暗い闇の中を黙って飛んでいる。
 そしてようやく縦穴に終わりが見えたと思ったその時──地底を流れる巨大な川と、そこに架かる一本の橋が目に入ってきた。
 その袂には、一人の女の姿。
「……見ない顔ね。ここはあんた達のようなご立派な奴らの来るところじゃないわよ」
 欄干に寄りかかり、腕組みをしたまま──金髪の女妖怪は、白眼視ならぬ緑眼視で二人を出迎えた。
「ご立派だなど──」
「いけ好かない臭いがプンプンするわ」
 明らかに、歓迎されていない。もちろん神子も、最初から歓迎されるとは思ってはいなかったが。
 布都が突っかかるかもしれない──それを懸念した神子は、先んじて、極めて腰を低くして話しかけた。
「人を、探しているのです。ここに居るはずなのです。……通しては頂けませんか」
 じぃと、神子の視線と女の視線が交錯する。お互い、相手を値踏みするかのように、見つめ合う。
 若干の沈黙の後、橋守をしているであろうその女は、ふっと微笑を浮かべて目を閉じ、橋の先に向けて顎をしゃくった。
「……別に、止める気は無いわ。その代わり、何があっても責任は持てないけどね」
 意外にも、拍子抜けするほどあっさりと道を空けた。だが、神子達が女の前を通過しようとしたその時──。
「念のため、釘を刺しとくわよ。ここは『旧地獄』。地上とは別の法が支配する、鬼達の都。何が起ころうが自己責任だし、あんた達がちょっかいでも出そうものなら、無事に帰れはしないわ」
 突き刺すような、女の声。忠告なのか、挑発なのか。
「……心得ております」
「そう、なら良いけど。……しかしまあ、地上から三人も招かれざる客が来るなんて、どういう風の吹き回しなのかしらね。ちょっと前に来た”亡霊”にも忠告してやったけど……『地霊殿【あんなとこ】』に何の用があるのやら」
「……!!」
 思わず、顔を見合わせる二人。
「どこですって? その人は今どこへ!?」
「『地霊殿』。鬼も恐れる、この旧地獄の支配者が居る宮殿よ。少なくとも、地上の”まともな奴”が好き好んで行く場所じゃないわね」
 言いながら、女は鼻で笑った。
「……どういう意味です?」
「行けば分かるんじゃない? ……ほら、道案内は──」
 にゃあ。
 いつの間にか、橋の上をちょこちょこと、黒猫が歩いて来ていた。
 金髪の女と、二人の顔を見上げると、またくるりと反対側を向き、しばらく歩く。そして振り返って、もう一度、にゃあ、と鳴いた。
「まさか……?」
「そのまさかよ。丁度良かったじゃない、あの猫が地霊殿まで連れて行ってくれるわよ」
 この猫の様子、女の反応を見るに──自分達を連れに来た、という事なのだろう。きっとこの黒猫は屠自古の事を知っている。そして、二人の事も。
「この子も、妖怪ですか」
「そうよ。まあ、案内が居れば道に迷うことはないだろうけど──精々気をつけることね」
 奥へと進んでいく神子と布都。その背中を見送りながら、橋守は一言だけ、付け加えた。
「”身包み剥がされないよう”に、ね」


 勝負は、やや意外な展開を見せていた。
「レイズ」
「コール【や】ってやんよ! フルハウス!」
「……くっ!」
 またしても、さとりの負け。
 序盤戦は双方が勝ったり負けたりを繰り返し、一進一退という状況であった。
 だが、屠自古がポーカーに徐々に慣れ始め──その特異なゲームの性質を理解し始めると、途端に勝ちが続くようになったのだ。
(──このゲーム、役は二の次。それよりも大切なのは、上手く勝負を避けること……だ!)
 強い役ができているからと言って強気になれば、相手はさっさとその勝負から降りてしまう。逆に、自分の手が弱くとも、相手を降ろしてしまえば即ち勝ち。
 確率論に基づく役の予想だけでなく、高度な心理戦──それこそが、ポーカーの本質。
 聡明な屠自古は、僅かな時間にそこまで見抜いていた。
「驚いたわ。貴女、本当にポーカーは初めてなの?」
 空に、チップを配当するように指示しながら、呆れたような声でさとりが尋ねる。
「初めてだ、と先程言ったのはそっちだろう」
 相も変わらず、屠自古の態度は刺々しい。無論、単身”敵地”に居るのだから、警戒するに越したことはないのだが。
 当初、さとりの前に積み上がっていたチップの山は、今や半分を大きく割る程に減っていた。もちろん、それは屠自古の目の前に移動していたのである。
「……レートを、上げませんか?」
「……何?」
 さとりは、平静を装いながらも憎々しげに、そう言った。
「賭け金の倍率を上げる、ということです。……このままでは、私も逆転が難しそうですしね。せめて、勝ち逃げを阻止するチャンスだけでも与えて頂きたいのですよ」
「……」
 屠自古は考える。
 この申し出を受けるのは、普通ならとんでもないリスクになるだろう。
 だが──。
「いいだろう」
 賭博の経験が全くと言って良いほど無い、とはいえ──屠自古には分かっていた。
 こういう分野に於いては、ツキの流れこそが最も大事である、ということが。
 今の自分はついている。
 ならば、相手の申し出に乗じて、一気に勝負を決めてやろう。
「感謝しますよ」
 そのさとりの声に含みがあったことに、屠自古は気付いたのだろうか──。


 むき出しの欲が、あちこちから神子の耳を撃つ。まるで礫を投げつけられるかのように。地下の入口で感じていた強い感情は、一層強く、彼女の耳を、頭を、精神を苛む。
 その耳を、その力を自ら制限しているというのに──それすらもお構い無しに、酷く暴力的に。
「神子様、大丈夫ですか!?」
「……平気です」
 そうは言うものの、神子の顔色は良くはない。
 ──二人と一匹が通過しているここは、旧地獄街道の賭場。
 地底に追い遣られた鬼や妖怪達は、今やここ旧地獄で一つの社会を形成していた。
 彼らの中には、その境遇にへこたれず、明るい者も多い。薄暗く、暮らしにくいはずのここで、前向きに生きている者もいる。
 今の彼らの殆どは、地上の妖怪達への恨み辛みは忘れて暮らしているのだ。
 しかし──それと「欲望を持たない」ということとは、また話が違う。
 人間であろうが妖怪であろうが、生きる限りは普通は欲望を持つもの。
 日々の暮らしの中で生じる鬱憤を、酒で、女で、男で晴らす。
 あるいは、賭博で──。
 賭場には『鉄火場』という別名がある。真っ赤に灼けた鉄の如くに気性の荒い者達が、己の金や果ては身すらをも賭け、熱く戦う場であるからだ。
 地獄の炎が逆巻くここ旧地獄に、まさに相応しい呼び名と言えよう。
 そこに集まる者達のあるがままの欲、あるがままの生の姿が、神子にとっては毒。住む世界が違うというのは単なる比喩ではなく、本当のことだ。
「……」
 場に不似合いな二人を、周囲の妖怪達の冷たい視線が追う。それを、神子は努めて気にしないように、黒猫の後をついて進む。
 神子の思いが通じたのか、あるいは”予定”だったのか──猫は次第に、人気の無い方へと二人を導いていった。
 鉄火場の喧噪を離れ、静かに奥へと。
 赤々と燃える地獄の炎、その色が次第に薄らいでいく。
 赤から、青へと。
 だが、熱気は冷めることはない。むしろ、却って熱くなっていくようである。
 その熱さは──。
「これは……これが、地霊殿……!?」
 目の前に建つ、巨大な館から漂っていたものであった。
 今までの和風建築の町並みとはがらりと雰囲気の変わった、洋風の宮殿。
 荘厳で、しかしやはりどこか陰鬱な気を纏った館は、青い炎が揺らめく中に不気味に佇んでいた。
「にゃあ」
 圧倒され、唾と言葉を飲み込んで立ち尽くしている二人を現実に戻すかのように、猫が一鳴きした。
「……参りましょうぞ、太子様」
「ええ」
 この中に、屠自古が居る。
 連れて帰らなければ。
 屠自古が何をしようとしているのか、それを見届けなければ。
 石造りの床に足音が響き、二人の姿が闇の中に消えていった。


○肆
 亡霊である自分が、冷や汗を流す。
 悪い冗談のようだが、事実だ。
 一方、相手のさとりは、涼しい顔をしている。
 青い炎が周囲を包むここ地霊殿での、ポーカー勝負。場の熱気すらが、徐々に屠自古を追い詰める。
「……降り【フォールド】」
「そう、じゃあ、今回の賭け金は頂くわね。……くすっ」
 意地悪そうにニタリと笑い、さとりはチラと手札を見せる。
「……!! 役無し【ブタ】……!?」
 自分には──これで勝負に出る訳にもいかないとは言え──ワンペアが入っていたのだ。勝負していたなら、屠自古の勝ちであった。だが、降りたからには、もうどうしようもない。
「くっ……」
 さとりを睨みつけたところで、もう遅い。鼻歌を歌いながら、空はさっさと屠自古のチップを集めていってしまった。
 二つの山の大きさの比率は、またしても大きく変動していた。
 屠自古の山が大きく高さを減らし、さとりの山が再び盛り上がっている。
 レートを上げて以降、屠自古は一切勝てていなかった。
「……やはり、何か力を隠していたというわけ……か?」
「ご名答」
 あっさりと、さとりは種明かしをする。それは、余裕の表れか。
「私は相手の心を、思考を読む事ができる。これを『イカサマ』と取るかどうかは人によるけど──少なくとも、”この場”では認めて貰わないと困るわね」
「……!」
 睨んだところで、文句のつけようはない。さとりは、カードを操作している訳ではないのだから。
 ”相手の思考を読む”のが、ポーカー勝負の本質。さとりは生まれつき、それに有利な能力を持っているに過ぎない。
 屠自古の額を、また、汗が一筋伝う。それを見て、さとりは冷やかに言った。
「まだ、続ける? ……どうやら、ギャラリーが増えたようだけど」
「……!? 太子……様!?」
 広い部屋の入口の方を振り向くと、そこにはよく見知った顔が、二人。
 神子と、布都だ。
「これ以上続けても良いけど……もし貴女が賭け金を払えない、というような状態になれば、彼女達二人を担保にさせてもらうわよ」
 それは、さとりの最後の揺さぶりだった。


 時を同じくして、神子と布都の方も、部屋に入るなり、その異様な光景に目を丸くした。
 青娥からの情報で、屠自古が賭け事をしているであろうということは予想がついていたが──まさか、これ程までに負けが込んでいるとは。
「屠自……!」
 思わず、神子が叫び、駆け寄ろうとする。だが──。
「おっと、お姉さん達、それ以上近寄っちゃいけないよ」
「な……!?」
 不意に目の前に現れた人影に、神子と布都は慌てて身構えた。
 そこには誰もいなかったはずだ。
 いや──。
 濃緑のワンピースを着、赤い髪をお下げにしているその少女の頭部には、猫の耳がぴくぴくと動いている。そう、先程から二人を案内してきた黒猫、その正体がこの少女だったのであろう。
「黙って勝負を見てて貰うよ。あっちのお姉さんが素寒貧になったら、身内であるお二人にも責任を負って貰うことになるんだからね」
 外野は手出し・口出し無用。
 神子と布都が来たからと言って、二人に屠自古の手伝いができるわけではない。依然として、屠自古は孤独な戦いを強いられるのだ。
 ──心を読むことができる”怪物”を相手に。
 残されたチップは僅か。逆転の目は限りなく小さい。
 屠自古は崖っぷちに追い込まれていた。
 そんな中──。
「……屠自古!!」
 お燐に制止されながらも、今度こそ、神子ははっきりと屠自古の名を叫んだ。
 振り返った屠自古と、目が合う──。


 ああ、何故、何故このタイミングで。
 よりにもよって、自分が一番追い詰められている時に。
 余りの絶望に、泣き出し、喚き出したくすらある時に。
 自分のそんな姿を、自分の一番大事な人に見られてしまうなんて。
 でも──。
「太子様……どうして来たのです。別に、応援なんて……私には、私には──」
 声の最後が、若干震えた。
 そして、ぷいと目を逸らし、さとりを向く。
「……続けよう」
 その時、さとりは。
「っ!?」
 ガン、と横っ面をぶん殴られたかのような衝撃を感じた。

 屠自古の雰囲気が、明らかに変わっている。
 口では、神子を突き放しているのに。
 顔は、仏頂面のままだというのに。
 今の今まで、あんなに余裕が無かったというのに。
 二人の姿を確認し、更に動揺するかと思われたのに──今の屠自古は、不思議な程に落ち着いていた。
 汗は引き、実に冷静に、カードが配られるのを待っている。
 その表情からは──。
(心が……読めない……!?)
 いや。
 読めない、というのとは少し違う。
 さとりは相変わらず、屠自古の心を、思考を、読み取っている。
 だが、さとりの”第三の目”に流れ込んでくるのは。
『太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様』
 さとりが殴られたように思われたのも、この、一つの強烈な思いが、一気に入ってきたため。
 ──これは思考なのか。
 一つの思いで頭が一杯な状態で、尚もプレイが続けられるものか。
 僅かな時間のうちに──今や、さとりの方が動揺していた。


「屠自古……」
 拒絶されたかのような気がして、神子は伸ばしかけた手をだらりと下ろした。
 だが、それを励ますかのような、布都の台詞。
「……太子様、屠自古に、勝ちの目が出てきてますぞ」
「!」
「今──風は再びあやつに吹いております」
 いつの間に床に胡坐していたのか──布都は笑みを浮かべながら、ぎゅっと筮竹を握り締めた。
 さとりが、外野のその二人のやり取りを聴き取っていたなら、あるいは。
 元よりさとりは、外野の人間の心まで読むなどというつもりは無かったし、仮に読もうとしたとしても、屠自古の心の声に掻き消されて、到底聴き取ることはできなかったであろう。
 それにさとりには、そのようなことに気を回す必要すら無かったのだ。
 自分に、これ以上無い良い手が入ってきていたのだから。
「貴女のチェンジよ」
「このままで良い」
「……何ですって?」
「このままで良い【ノーチェンジ】、と言ったのだ。私はこの手で勝負する」
 配られたカードを見ることもせず、卓に伏せたまま、屠自古はそう言った。
「何ですって……!?」
 一体、何のつもりだと言うのか。
『太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様太子様』
 思考を読もうにも、屠自古の考えていることは分からない。読もうとする度に、さとりの頭が痛くなる。
 ブラフ、だろうか。
 こちらを降ろすために、強気に出ているとでも言うのか。
 それにしても、自分の手札すら見ていない、というのは──役ができているかどうかすら分からないではないか。ましてや、チェンジも無しでは、役無し【ブタ】が当然というものだ。
「聞き間違えではないわね?」
「くどい。……いや、ああ、ごめんなさい、賭け金を出すのを忘れていたわ」
 そう言って、屠自古は自分に残されたチップのうちの二山程を、腕まで使ってがさりと前に出した。
「……! レイズ」
「レイズ」
 間髪入れずに、屠自古はチップを上乗せする。
 ──何だこの自信は。
 先程までの弱々しい態度は、一体どこに消えてしまったのか。
「……降りないの、ですね」
「何故降りる必要がある? 私が手札を見ていないから、とでも言うのであれば──それが、何か問題でも?」
 屠自古の表情は変わらない。
 ──挑発しているのか。
 こちらには、”ストレートフラッシュ”が入っているのに。

 さとりは今まで、”相手の心を読む”という自分の能力は存分に奮ってきたが、それ以外のイカサマはしたことが無かった。それは、さとりが屠自古に最初に説明した言葉の通り。
 いや、そもそもイカサマなどしようとすら思わなかった。しなくても、彼女の力があれば、誰にだって勝てたからだ。
 心理戦をこそ最も得意とする彼女は、いつもこのように──最初はわざと負けて相手を調子に乗らせ、レートを上げてから毟り取る──勝ってきた。
 自身の力である読心は是であり、カードのすり替えなどのイカサマは非。役だけは己の力で作る──他人に何と言われようが、それがさとりなりの哲学であり、矜持であった。
 そんなさとりの手に、今、ストレートフラッシュが入っている。
 ハートの1、2、3、4、5。
 ポーカー歴の長いさとりとて、自力では滅多に作れるものではないのだ。
 これに勝てる役は二つしか無い。ロイヤルストレートフラッシュに、ファイブオブアカインド。どちらも、気の遠くなるような確率の壁を潜り抜けてようやく実現する、奇跡のような役。
 自分が自力でストレートフラッシュを完成させている今このタイミングで、相手にもそのような役を作られてたまるか。
 それに──只のジンクスではあるが──”ハート”、それもエースが含まれているこの手は、さとりにとって最大のラッキーハンド。ハートのエースが絡んだ役は、今までのさとりの大勝負の度に現れ、彼女に勝利をもたらしてきた。
 ──これで、止めを刺す。
 先程は、自分の手札すら見ようとしない屠自古に一瞬慌てたが、構うものか。カードを一枚たりともチェンジせずにストレートフラッシュに勝とうなどと、ブラフにしてももっとマシなやり方があろう。
 相手が降りれば良し、受ければ尚良し。
「レイズ」
「レイズ」
 瞬く間に、テーブルの上のチップが積み重なっていく。
 さとりも、屠自古も、一歩も引きはしない。
「……そう言えば、昔、貴方と同じ手口で相手をフォールドさせて勝った人がいる、と聞いたことがあるわ」
 チップを加えながら、さとりが呟く。
「へぇ」
「自分と、友人と、愛する家族の魂を賭けた大勝負に、結局ブラフで勝っちゃった……ってことらしいですよ」
「凄いことをする人がいるものだな。私には到底できない」
「……白々しい! 貴女がこの勝負、イカサマで勝とうなどと思っていないのは分かります。だからこそ、何故貴女がこんなことをするのか、理解できないわ!」
 思わず、さとりは卓を叩いて立ち上がった。
「それに──教えるつもりは無かったけれども、別に貴女や、貴女の大事な方を借金の形に取るとか、そこまでしようだなんて思ってはいないわ。今なら許してあげるから──」
「何故、許して貰う必要が?」
「っ!?」
「何を恐れているのやら。勝負の最中に喚くというのは、手に自信が無いという証拠だな」
 その一言が、ついにさとりの逆鱗に触れた。
「……もう、引き返せないわよ」
「そんな気はさらさら無いな」
 さとりの最後のレイズ。今勝負に使っているありったけのチップを、テーブルに乗せる。表情は歪めつつも、さとりには、屠自古を気遣うだけの最後の若干の余裕があった。ここで屠自古がフォールドしたところで、屠自古が有金を全て吐き出すわけではないのだ。
 だが──。
「レイズ。足りないから、全て賭けるわ」
「……!」

 時を止めるなどという反則級のイカサマを使える者も、空間を歪めてカードを自在に入れ替えられる者も、この場にはいない。
 屠自古は、相変わらず、自分の手札を一枚たりとも覗いてはいない。

 屠自古がさとりに勝てるとしたら──。

「勝負!」
 さとりは勝利を確信していた。いや、疑う必要すら無い。
 力強く、自分の”ラッキースート”である”ハート”のストレートフラッシュを、
「これに勝てる手が入っているの!?」
 と、叩きつけるようにして晒す。

 ──ストレートフラッシュに勝てるだけの、役を備えているしかない。

「……では、私の番だ」
 屠自古は静かに、端から一枚ずつ、カードをめくる。
 キング。
 キング。
 さとりの顔色が変わる。
 またキング。
 そして、キング。
 さとりだけでなく、燐、空も。
 卓上に現れた、四人の王。
 フォーオブアカインドが確定している。
 だが──。


「まずい、まずい……」
 余裕の笑みを見せていた、と思ったが──さとりが手を晒した時から、布都の様子はおかしかった。
「どうしました、布都?」
「まさか奴めがストレートフラッシュを完成させていたとは……! 我の卜占では、我ら二人の登場でツキが来たとは言え、フォーオブアカインドが限界!」
「ということは?」
「……屠自古めの、負けです……!」
 布都が、下唇をぎゅっと噛む。
「そんな!? 勝つ手は、無いのですか!?」
「最後の一枚……伏せられた最後の一枚が、”アレ”ならばあるいは……しかし、そのようなことが……」
 神子も興奮し、布都の肩を両手で揺さぶる。屠自古本人よりも、外野の二人の方が泡を食っている、という有様である。
「”アレ”とは何です!?」
「……”ジョーカー”ですわ、太子様」
 いつの間に来ていたのか──。
 妖艶な美女の声が、神子の背後からかけられた。
「娘々!?」

 屠自古の手が、最後の一枚に伸びた。
「……愚か者めが!」
 まるで、そのカードが、初めから”それ”であると分かっていたかのように。
 揺るぎない視線と、力強さで、屠自古は五枚目を表にする。
「な──!?」
 さとりは目を疑った。
 人を小馬鹿にしたような身振りと顔で踊っている青い道化の姿が、そこにはあった。
「ば……莫迦な!?」
 そう、それこそがポーカーの最強の役──。
「ファイブオブアカインド。私の勝ち、だ」
 屠自古はそう言い放って立ち上がり、さとりには目もくれずにチップを掻き集め始めた。
 不遜なその様子に、空も、燐も色めき立つ──が、あわや屠自古に飛びかからんとしたところを、さとりが制止した。
「私の負けよ。約束通り、貴女が望むものは全て持って行っていいわ──でも、一つだけ聞かせて」
「何を?」
 心を読む力も封じられ、自分のツキをも上回る役での敗北。ここまで来ると悔しいどころではなく、いっそ清々しくもある。だが──。
「カードも見ず、チェンジすらせずに、どうして私に勝てると思ったの?」
 その問いに、屠自古はふっと笑って、答えた。
「太子様が私の傍に来てくださった。あの方は私の全て。それだけで、誰にも負ける気はしない──では、理由にならぬか?」
「そう。……私も、そんな人が居てくれたら、ひょっとしたら勝てていたかもね」
「かもしれぬ、な」
 屠自古が視線を上げ、さとりと目が合う。そこで改めて、今までの嫌味な笑みではなく──二人とも、実に爽やかな笑顔を交わし合った。


 屠自古が勝った。それは喜ぶべきことであり、何の心配も要らない。
 だが──さとりだけでなく、神子も、布都もまた、屠自古の勝利はにわかには信じ難かった。本来なら手を取り合って喜んでいるはずのところを、それも忘れて茫然としている。
「勝った……の、ですよね?」
「え、ええ……しかし、どういうことじゃ、これは? 先程申し上げた通り、我の卜占では、屠自古の手は精々『フォーオブアカインド』が限界だったはず……」
「あら、簡単なことですわ」
 青娥だけは、相変わらずその余裕の笑みを崩さない。
「布都様は、私の存在を知らずに、私抜きで易を立てたのでしょう。私がここに来たことで、場の運勢がまた変わった──それが、上手く働いたのですわ。屠自古様に必要だったのは、”王”と”道化”でしょう? ……尤も、そのツキを引き込んだのは──屠自古様の揺るがぬ意志と信頼に他なりませんが」
「……なるほど、”王”と”道化”……そういう事、ですか」
 くっくっと、神子が笑った。


○終
 屠自古はぶすっとした顔で、地霊殿を後にしていた。さとりからせしめた大量の札束を入れた鞄を、両手で抱えながら。
「聞いておるのか蘇我! 我らが……あ、いや、太子様がどれだけお主の事を心配しておられたか、本当に分かっておるのか!? こっちを向けぃ!」
 ぎゃあぎゃあと煩い布都に閉口しているという部分もあったのだろう。
 だが、それよりも──。
「……まだ、教えてくれないのですか」
 神子が、相変わらず悲しそうな顔をしていたからだ。

 ──切ない。

「どうして、こんな危険なことを? お金など必要無い、そう言ったではありませんか」
「……お金じゃない」
 布都の声と神子の視線に耐えかねて、屠自古はようやくボソッと呟いた。
「お金ではない、と……? では、一体何故?」
 屠自古は鞄を抱き締めたまま、大事に大事に持っている。
「……たしたくなかったから……」
「? ちゃんと、聞こえるようにはっきり──」
「……が欲しかったのですっ! 他の誰にも渡したくないぐらいに!」
 耳まで真っ赤にして、屠自古はそう叫んだ。そして、他の三人を置いて、一人でさっさと先に行ってしまう。
「!? 蘇我、お主っ!!」
 その様子に、布都もいよいよ憤慨して追おうとしたが──。
「まあ、まあ」
 青娥がその服の裾を掴んで、宥めるように言った。
「娘々、貴女には分かるのですか? 屠自古が何をしようとしていたか」
「そうですね──屠自古様が欲していたのは、お金であってお金でない──」
「分からぬ事を申すな!」
「では、実際にお見せした方が早いでしょうね」
 そう言うと、青娥は──どこに隠していたのやら、胸元に手を突っ込むと、一枚の紙幣を取り出した。
 皺と折り目が付いたそれを、両手で引っ張って、神子の目の前で広げて見せる。
「これは──!?」
「二十数年程前に、外の世界で使われなくなり、幻想郷に入ってきたという”お札”です。外の世界の価値では確か──」
 青娥の手にあったものには、そして、屠自古の鞄の中に詰まっているであろうものには。
 姿は違えど──屠自古の、大事な大事な人の画が写っていた。


(了)