永い眠りからの復活を遂げた豊聡耳神子は、復活して間もなく忙しい日々を送っていた。乱暴な闖入者が後を絶たなかったのである。ようやっと平穏が訪れてしばらく、空白の時間に蓄積された歴史や書物を学ぶのに勤しんだ。一を聞いて十を知れば修めるまでそうはかからず、神仙の修行はすれど、最近は専ら手持ち無沙汰だった。
 そして今日も無聊の慰めに興あるものを探していた矢先、寝殿へ向かう途中に射し込む月光があまりに美しかったので、寝殿には入らず角を曲がり廂を越え、簀子へと出た。
 すると、濃紺の空は雲一つなく、盈月の輝きの素晴らしさに煌星は影を潜めている。剪定の行き届いた無駄のない枝ぶりに咲く、月影を一身に浴びる真白の梅花は、宵闇の中でも十分に目を楽しませるものだった。思わず、ほう、と息をつき、神子は暫しその光景に見惚れた。月に花とくれば酒しかあるまいとばかりに、寝殿に隠してある秘蔵の清酒と酒器をこっそり持ち出し、簀子の、階にほど近い場所に置く。自身はその横に座り、階の段に足を投げ出した。

「ふふふ、人の目を気にしないで良いって素晴らしいわね」

 花瓶のような陶器にはまっている木蓋をとると、芳醇のあまりに脳髄を直接揺する香りが放たれる。銚子に柄をつけて柄杓にしたような酒盞に一旦注ぐ。瓶の方を覗くと、これだけで三分の一ほど減っていた。酔うには心許ない量だが、別棟に甕である酒は濁り酒で、今日の気分にはあわなかった。黒ずむことなくまばゆい白銀の柄をとり、梅の花に負けない純白の磁器に注ぐ。小さい茶碗ほどのその盃を持ち、ぐっと勢いよく呷った。一瞬息を止めて吐き出すと、鼻腔に抜ける凝縮した芳香がなおのこと気分を昂揚させた。
 高々とした月と、嫋嫋とした風では散らぬ花、そして屋内の方へ伸びる自分の影が見える。機嫌も上々たるもので、最近目にした詩を口ずさんだ。


花間 一壷の酒
独酌 相親しむ無し
杯を挙げて 明月を邀え
影に対して 三人を成す
月既に 飲を解せず
影徒に 我が身に随う
暫く月と影を伴うて
行楽 須らく春に及ぶべし
我歌えば 月 徘徊し
我舞えば 影 零乱
醒時 同じく交歓し
酔後 各 分散す
永く無情の遊を結び
相期して 雲漢はるかなり


「さて、これは李白だったか、花と月と影が友人とは滑稽極まりない。それをこんな名文にするなんて、隋の後も捨てたものではありませんね」

 正に今の私にはうってつけの詩だわ、と呟く。布都や屠自古といった忠臣たちは、主の生活の保障の為に、巡察や家事と齷齪しているため、宴は独りになることも多い。尤も、呼べば来るのだから、神子は一時的な孤独を楽しんでいるに過ぎないが。
風景を肴に、盃も口内も乾く暇はなかった。酒の残りが僅かになりつつあり、結局、追加することにした。

「娘々、娘々」

 酒を持ってきてもらおうと、ふわりと重力を感じさせない挙動を思い描きながら、呼びかけた。返事は無い。もう一度同じように呼びかけてみたが、空しく響くだけだった。酔いでもまわりましたか、仙酒になさってはいかがです、などという返事を期待したが、なるほど、あの詩を口にしてしまったのが良くなかったか、と回らなくなってきた思考で、脈絡のない結論をはじきだした。
 肴は目の前に広がっているので動く気もせず、追加は諦めて手元のものを口に含む。既に泥酔の域に入っていたが、本人は笛でもあれば吹きそうな上機嫌で、時折歌を交えながら呵呵と笑うばかりであった。


 後頭部を殴られた後に残る痛みを感じて、慌てて身を起こす。唐突な動作をおこしたことで、結果的に頭痛は増した。外傷に思われた痛みは内から来るもので、頭の中で鐘を撞かれているようだった。首が揺れる錯覚を覚えながら、立ち上がることもままならず、簀子の赤い敷物に臥する他なかった。これでは埒が開かないと、屋内にいてすぐに来るであろう人の名を呼ぶことにした。

「……」

 唇は確かに動いた。しかし、夜風と酒精で傷めた喉は枯葉が掠れたような呻きを捻りだしただけだった。愈々まずいと悟り、なんとか立つと千鳥足で屠自古を探すことにした。一人でいるのは危険で、布都は屋外のどこかわからないと判断したのである。
 母屋を出たつもりが、垣まで越えていた。沓も履かずに出てしまったが、不思議と体が軽く、小石を踏んでも痛くは無かった。暗がりはいつしか真昼の様相を呈し、神子は山道を登っていた。道とは言い難い坂を、息も絶え絶えに飢えを堪えつつあがる。渇きがひどく、梅の実を思い浮かべても唾すら出ない。水たまりの泥水に吸い寄せられると、映っていたのは枯衰し、粗末な身なりをした男だった。誰だ、と思うやいなや、体は倒れ伏す。
 陽光に焦がされ、虫の息が絶えそうになるのを、神子は内側から感じた。苦しい。それ以上にそう思う余裕もない。一髪の隙間をあけて、死が待ち構えているのがありありと分かる。自分は死ぬのだ。何故、という疑問で満たされる。

人はなぜ死ななければならないのか

 幾度となく去来した問いに、再び直面する。自分の身体かどうかなど関係は無い。今まさに死のうとしているこの事実が理不尽で憂懼するのだ。
 数刻とせず、神子は死んだ。正確には、一人の旅人が死んだ。神子の意識ははっきりとしている。それでも、魂と切り離された体は偃然とするのみで、動くはずもない。自分の輪郭を知覚しながら、それがただの躯体に成り下がったのを思い知らされる。いつ閻羅王の元に連れられるのか怯え続けるのか。連れられれば業を負ったまま再び生まれるのだ。違うものになるなど考えたくもなかった。同じ罪を償いつづけるのであれば、死という区切りなど必要なく、ひたすら自分という存在のまま贖い続ければ良いと、頑なに神子は思い続けた。
 互換など失われていたはずだが、頭の辺りに足音がした気がして、迎えでも来たかと神子は意識だけでそちらを見た。すると、そこにいたのは、金色の柄が煌めく黒鞘の剣を帯び、高貴な紫を基調とした装束の、自分の姿だった。
 目の前の自分は舎人に命じて、倒れている男に布を着せ、必死に呼びかけている。勿論既に死んでいるのだから、反応はない。やがて、それがわかった時の自分の顔はとても酷いものだった。ただでさえの白皙を蒼然とさせ、舎人が命令通りに丁重に葬る間も、木の幹に寄りかかって青息吐息を繰り返していた。
 腐葉土に掘った穴に寝かされ、土を被せられながら神子は思い出した。これは神子が竜田山に出かけた時のことだ。戦で死人を見たことがないわけではなかったが、人の死が当然ではない場で死を見てしまったのが確かこのときだった。これ以来、道理もなく訪れる死について考え、恐れ、刃向かったのだ。確かこの後、死者の魂の穢れを祓うために、挽歌を一つ読んだはずだ。ここ迄で最後の土が乗せられ、完全に思考は途絶えた。


 頬を包むように叩かれる感覚に、暗闇に落ちた意識は再び浮上した。眼を開き、ぼやけた視界に濃緑の服が入った。烏帽子を乗せた髪は短い。自分の頬を包んでいた手をとって、記憶の整理がつかずに惚けていると、幾分か強制の含みを持たせた声が響いた。

「お眠りになるのでしたら、床へ」

 眠っていたのにまた眠るのか、と神子は思った。

「夢を見たわ」
「それで、そのようなお顔でおいでなのですね」

 神色は頗る劣悪で、禁句に等しいので屠自古は口を噤んだが、それこそ死にそうな程だった。

「悪い夢だ」

 死ぬ夢など、と零しそうになり、すんでのところで押し留めた。

「五臓の煩いですね」
「そのようね。清酒は強いのを忘れていました。それにしても、屠自古も随分漢語に精通してきて、喜ばしいことです」

 忠臣の二人とも、生前は時代と性別もあって識字すら怪しかったが、近ごろは神子に倣って勉学に励むことも多く、神子も喜んで教鞭を振るった。

「お褒めに預かり光栄ですが、春とはいえ夜は冷えます。早くご就寝を」

そう言って寝床に連れて行こうとする屠自古を引きとめるつもりで、繊手を引いた。質量では神子に分が有った。

「太子様、どうかなさいましたか」
「どうして呼んだ時に来なかったのか教えてくれませんか」

 屠自古は首を傾げた。太子と話すのに目線が上なのは失礼だと思い、隣に座る。首は傾げたままだった。

「もしかして、娘々などと言っていたときでしょうか」
「わかっていたのに来なかったのね」

 いえ、と断っておいてから屠自古は弁明した。

「前に太子様から伺ったところでは、確か親しい女性を指すとのことだったので。てっきり他の方とお楽しみになっているのかと」
「そんなこと有ると本気で言っているのなら心外だわ」

 平素は飄々として掴みどころのない、柳のような心情をしているが、今の神子は屠自古にも明瞭にわかるほど拗ねていた。

「太子様が待たせるから、私の髪は三千丈もありませんが、白くなってしまったのですよ? 眠っている間に心変わりされないかと」

「そんなことは杞憂に過ぎない。愛さぬ者を尊正に据える愚行はしない。試しに、鏡を割って半分ずつ持っておくなんてどう?」
「鵲が飛ばないことを祈ります。ただ、それ以上に」
「以上に?」

 一旦言葉を切ると、神子の肩に寄りかかる形で、俯き気味に柔和な笑みを浮かべた。

「離れないで済むことを希いましょう」

 神子は質量のない重みを抱えると、胡坐の上に乗せた。背後から力いっぱいに抱擁し、そうだね、と囁く。死ぬことが怖いのは、自分ではない何かになることが、神子と屠自古としていられなくなることが怖かったのかもしれない、と神子の脳裏に過る。そうしてあの時も挽歌を読んだのだった。死ぬ間際、自分が自分でなくなる刹那にさえ、妻とまみえることが出来なかった男を悼んだ。

家ならば 妹が手まかむ草枕 旅に臥やせる この旅人あはれ

 細腰に腕を回し、手折ることも容易そうな線の細い屠自古の首筋に顔をうずめた。清酒とは違う、しかし清涼で典雅な芳香は何の香を焚いたのか、知らぬ香は無いはずなのに神子にはわからなかった。屠自古の生来のものだとすれば、楊貴妃にも劣らぬ器量だろうと、誰に宛てるでもなく自慢をした。
生まれ変わるのは嫌だが、私に転生するための死者と、屠自古に産まれる星の下にあった死者には感謝したい、と神子は思う。もし人が死ななければならないとすれば、きっとそこに意味があるのだから。