『約束』


     1

「ああ、此所でしたか。ただいま帰りましたよ、屠自古」
「おかえりなさい、太子。何か御用ですか?」
 豊聡耳神子を蘇我屠自古は笑顔で迎えた。神子は屠自古の前に腰を下ろした。白い足を揃えて座る屠自古の眉間には浅い皺があった。それを見て、神子は窺う。
「用なのですが……邪魔でしたか?」
「少々考え事をしていただけです」
「もしかして、此所の事ですか?」
「違います」
 はっきりと否定した屠自古に、神子はただ微笑むだけだった。
 屠自古と神子が居るこの和室は、広い屋敷の中で人目を避けるかのように入り口から一番遠い所にある。それでいて僅かに残った埃の臭いだけが狭い室内を満たし、日の光も中々部屋の隅を照らすまで入って来ない。そういう理由もあって、この和室を利用する者は屠自古以外に居ないと断言してもいい。
 窓は閉められ、障子も閉ざされているため、こういう臭いが中々なくならない。窓も障子も開け放てば消えるだろう。しかし、他人との関わりを断つかのように閉ざされたままだ。
 屠自古の体調を案じた神子が、別の場所で過ごすように言ったのは一度や二度ではない。屠自古の答えがそういう時、殆ど決まっていた。
『家の中で一部屋ぐらいは静かに過ごせる場所があった方が楽だと思いませんか?』
 屠自古は一日の大体をこの部屋で過ごす。文の読み書き、思索に耽るのに最適らしい。屋敷や外はどこも騒がしい。
 神子は再度、屠自古に言う。
「こんな所で引き篭ってばかりだと、取り残されますよ?」
「必要な時は出ていますから平気です」
「必要ではない時の方が案外重要なものなのです。必要な時は角が立たないように仲良くするのが殆どですから」
 神子の微笑に影が割り込む。屠自古はその影を見て、加虐的な思いに駆られた。神子の落ち着いた心をそっと乱すように言葉を紡ぐ。
「どんなことが聞こえるのですか?」
 予想外の問いだったらしく、忽ち頬を羞恥で赤くさせた神子は咳払いを数度零した。それ以上は訊くなという強い拒絶を感じる。加虐は心の奥、在るべき所に戻った。屠自古は満足し、くつくつと笑い、今度は神子の目を見て、別の言葉を優しく投げ掛ける。
「それよりも、用とは?」
 黄金色の瞳は唐突なことに再び驚き、揺れる。その瞳には驚きだけではなく、幾つもの感情が見え隠れした。恥ずかしさ、不安、恐れ、悲しみ……屠自古はもう一度、そっと、傷口に触るように優しく言う。
「何か私に言いたいことでもあるのですか?」
「……あります」
 屠自古は神子の言葉を待つことにした。部屋に落ちた沈黙は、屠自古がいつも感じる物静かな心地好い沈黙ではなかった。太い柱が軋み、小さな音を立てる。叱れた時にただただ言葉を待つ時のような、あの嫌な沈黙に近い。早く破りたい沈黙だった。それでも屠自古は何も言わず、神子の発言を待ち続ける。暫くして、神子は薄紅色の唇から固い言葉を発した。
「言いたいこと、というよりも、約束の方が正しいことです」
「約束?」
「そうです」
 神子の瞳から迷いが消えた。
「どれほどの日が開こうと、誰とどんな時を過ごそうと、屠自古の元に帰って来るから、その時は笑って私を迎えてほしいのです」
 屠自古は神子の言葉を決して、茶化そうとはしなかった。屠自古の元に神子が帰って来ることは、当たり前のように思っていた。だから、神子の約束に面白みを感じる。声を忍ばせ、笑ってしまいそうだった。が、そういうふうに笑わないようにかなり意識する。
 当たり前のことを神子が約束と称して言った理由を考えれば、とてもだが笑えるようなことではないのだ。その約束を聞いた屠自古の答えは決まっている。
「約束します。私はここで、太子の帰りを待っています」
 屠自古は満面の笑みを浮かべて、そう答えた。。



     2

 やはり静かであった。時折障子の向こう側から鳥の鳴き声がする程度だ。夕日が部屋の隅々を照らす。濃い影が一つ、畳に落ちていた。屠自古である。
 もう少しすれば、この部屋も屠自古を探す声で騒がしくなるに違いない。暗鬱な気持ちが生じ、考えも厭世的な方向に傾いて来た。
 屠自古にとってこの屋敷の音という音は耳障りだった。ただ騒がしいだけではなく、幾つもの音が重なり不協であった。その嫌な音は、いつしか屠自古の心に居心地の悪さを与えていた。


     3

 ある夜の食事の席の事だ。屠自古は自分でも気付かない内にむっと眉を寄せ、顔を顰めていた。その時の言葉は今も容易に思い出せる。
「そんなふうに顰めっ面をして、つまらぬか?」
 そっと耳打ちされた。突然のことに驚き、屠自古は我に返ったように言葉を紡いだ。勿論、嘘である。ただ、この席の空気を壊さないように悪い方向に転がさないように言った。
「いえ、そういうわけではありません」
「そうは言うが、お主、先からずっとその顔ぞよ」
 それを家族に指摘され初めて、居心地の悪さと向き合うことになった。
 そして屠自古は一日の大半をこの狭く、埃臭く、鬼門の方角にある部屋で過ごしている。
『鬼門と知っての行動か?』
『はい』
『彼処には猿の像を置いていたが不要か』
 屠自古はその言葉にその時は、あまり反応を示さなかった。そんな冗談のような嘲笑を浴びせられると屠自古自身がはっきりと理解していたからであり、屠自古自身そういう運命を受け入れる気でいたからだ。


     4

 屠自古は神子の帰りを待ちながら、こう考える。
 知恵を表に出せば、事を荒立ててしまう。ぎょろりと屠自古に向けられる目は、どれも呆れのような感情を奥に嫉みや憎しみや恥という感情がこびり付いていた。屠自古がここに書を置かない理由がここにある。
 だからといって感情の赴くままに突き進めば、如何なる事も感情で片付けられ、屠自古の意志はどんどん流されるばかりだった。薄い時の中でも確か収穫があった。ある人曰く、そういう情性は女性らしくて非常に愛らしい。屠自古はその人に、はっきりとした侮蔑を送った。
 そんなふうに意地を通すと、退屈だった。兎に角、この国は住みにくい。屠自古は思う。この国は、人が人のために作ったがために住みにくい。ならば、どこかへ引っ越すべきだろうか。寛げ、少しでも住みやすい地。そう考えると、移住先は、人ならずものが作った国しかない。人ならずものが作った国は、屠自古のような人には住みにくいことは間違いない。ならば、と思う。人ならずものが、人の国に住むのはどうなのではあろうか。
 屠自古が鬼門に部屋を置いている理由が、ここにある。しかし最近になって、ここすらも住みにくいと感じる。屠自古は神子の言葉を反芻させる。
「どれほどの日が開こうと、誰とどんな時を過ごそうと、屠自古の元に帰って来るから、その時は笑って私を迎えてほしいのです」
 屠自古は笑う。やはり可笑しいことだ。
 この命は最早、屠自古の一人の命ではないように思える。


     5

 神子の帰りを待ちながら、こんなことを考える。
 神子がここに顔を見せた時屠自古が居なければ、神子は青い顔で屋敷を駆けることだろう。それでも屠自古が見付からなければ、神子はどう思うのだろうか。何より屠自古は何を思うのだろうか。きっと、どうしようもない罪悪感が胸を痛い程締め付けるのだろう。帰る場所を失った神子は、どこへ帰るのだろうか。
 そんなことを考えると、笑みが急速に消える。約束した時と同じように真剣な面持ちになってしまう。
 静かに障子が開き、明るい声が屠自古の耳朶を打った。
「ただいま帰りましたよ、屠自古」
「おかえりなさい、太子」
 微笑む神子の奥に、眩い星が幾つも見える。その幾つものを星がゆっくりと神子に落ちるような錯覚を覚える。それから、神子の顔に青い影が帯びているのが見えた気がする。屠自古は錯覚だと、褐返色の闇が見せた幻だと思い込むことにした。思い込んだところで、屠自古は神子が心配だった。
「政務が立て込んでいるのですか?」
 月明かりに照らされ、神子の影だけが部屋に溶け込んでいた。神子の顔から滲む疲労を考えれば、屠自古はとてもだが何か新しいことを問おうとも、答えを待とうとも思わなかった。ただ、一言、言葉を送る。
「私のことは気にせず、ゆっくりおやすみにになってください」
「……ええ。済みません。それではおやすみなさい」
「おやすみなさい」
 するりと、まるで人ではない者のように踵を返す神子。開けられたままの障子から、冷えた夜風が屠自古の頬を撫でる。夜風からは土の匂いがした。


     6

 神子の帰りを待ちながら、こんなことを考える。
 屠自古は夜が、皆が寝静まったこの屋敷が好きだった。闇は深まり、ただ星と月だけが辺りを照らす時間が好きだった。少し開けた障子から入る冷えた風を浴びると、気持ちが清らかになる。野鳥の鳴き声を聞いたり、土や花の匂いを嗅ぐと落ち着く。笑みが零れる。そういう時が屠自古にとって確かな幸せだった。


     7

 屠自古は目を見開き、唇を震わせる。何か、何か一言、言葉を投げ掛けたかった。だがどれも音にならない。胸の中にある感情はどれも複雑に絡み合い、一つの音にするには今はあまりにも短い。
 待ってほしい。そんな即急な願いを口にすることすら出来ない。
 白い足と細い身体は闇に紛れ、精一杯の優しさで抱き締められた温もりは風に乗り部屋を出て行き、ただ強烈な絶望だけが部屋に残った。
 今宵のことは恐らく、急なことではなかったのだろう。屠自古も聞かされていた。
『あっし以外の者が度々目撃しております。ですので昨日に始まったことではないかと。勝手に事を進めるわけにはいかないと判断し、貴女のお耳に入れておこうと思いまして……』
『布都と密会、ですか……。私のような愚女が口を挟んでいいことではありません。人目を憚るようにするのには何かしらの理由があるのでしょう。あの方のことです。悪いようには転びませんよ』
『は、はぁ……』
『腑に落ちませんか?』
『いえ、んー、あー、大丈夫です。あっしの杞憂ですね。お忙しいところ済みません』
 屠自古は愚女であった。布都と神子が会うことにおかしさを覚えることなど出来ることが出来なかった。心のどこかで、神子は約束を破らないという甘い考えがあったのは事実だ。夜でも、早朝でも、必ず屠自古の所に戻って来たのだから、破られる筈がない。どうして疑えようか。
 屠自古は静かに、そっと、ようやく、震えた唇で複雑な思いを口にした。
「……一人は嫌」


     8

『長い間、屠自古の元を離れます。あるいはもう来れなくなってしまうかもしれません。ですから、あの約束は忘れてくれて構いません』
 神子の最後の言葉が、畳に身をあずける屠自古の頭の中でぐるぐると回り続ける。
 屠自古は、二つの不安定な思いの間に在った。一つはこのまま約束を守り、神子のために生きること。もう一つは自分に素直になること。
 屠自古は自分から、神子との約束を破りたくはなかった。屠自古と神子を繋ぐものは、この崩れそうな約束以外に存在しない。この約束を屠自古が破れば、神子はどこへ帰るのだろうか。
 布都の所であろう。政務や治世で神子を支える布都が、羨ましい。布都は屠自古とは違う魅力を持っている女であった。その女の元へ神子が帰るのであれば、屠自古の役目はない。
 そうであるのならば、人ならずものになるのも一つの手であろう。神子が居ないこの国は屠自古にとって、住みにくい国でしかない。住む価値が見い出せないのである。
 しかしだからといって――屠自古は決められないでいた。約束を破ることも人でないものになることも怖い。
 屠自古の時間は、神子が去ったことにより動かなくなったように思える。同じことを繰り返し問答している。いつしか答えが出ると信じ、考え続ける。屠自古が屠自古である限り、答えは出て来ないと分かっている。が、納得したくなかった。
 気持ちの悪い感覚が屠自古を掴んで放そうとしない。このままずるずるとゆっくりと堕落してしまいそうだった。そんなぼんやりとした不安が、屠自古の心の一部に芽生える。それもいいことではないだろうか。心のどこかでそんなふうに囁くものがいる。
 このままいけば、運命という言葉に辿り着く。どんなに足掻こうとも死ぬのだから……。そんな時、神子との約束が心に染みる。心に神子との約束が絡み付いているように思える。


     9

 障子に影が生まれた。それからして障子が開き、一人の女が入って来た。畳がぎぃと音を立てる。屠自古は面倒臭そうに音のした方を一瞥した。屠自古は瞬く間に立ち上がり、女を睨み付けた。怒りがあったが、それよりも焦りと己の身を守らなければならないという当然の意志が働いた。
 狩衣を着た白髪の女。腰に、柄に太陽を象った一本の剣を挿している。女から発せられる鼻が曲がるような強烈な臭い。けれども、腐臭ではない。鉄や土や油の類であろう。
「布都、どういうこと?」
 女、物部布都は屠自古の問いに答えず、柄に手を掛ける。
 屠自古の心はにわかに騒付く。布都は、神子の部下である。布都がここに居るということは、屠自古を殺しに来ることは神子の命令なのであろうか。屠自古を見限ったのであろうか。仮にそうだとして、神子から詳しいことを聞きたい。
「太子はどこ? 一緒に居るのでしょう?」
 布都の顔が大きく歪んだ。刀を抜いた手が震える。屠自古の喉元に伸びる剣閃は大きくぶれていた。
「屠自古、済まぬ」
 布都の唇から漏れた言葉は、多大な悲しみに濡れていた。屠自古の知らないところで、何が起きているのだろうか。
「命令?」
「騒ぐな。すぐに終る」
「遺言は許されるか?」
 一カ所しかない入口を布都に防がれ、狭い室内であるがゆえ大きく逃げ回ることが出来ない今、屠自古が無傷でここから逃げられる可能性は殆どない。布都が屠自古の喉を突くのが早いか屠自古が布都の懐に潜り込むのが早いか。
 屠自古はこの場で布都に殺されるわけにはいかなかった。少し前ならば殺されても仕方がないと判断したであろう。しかし今は、神子との破りたくない約束がある。たとえ布都の所に神子が帰ろうとも、最後は屠自古の元に帰って来ると信じたい。
 脆い約束と信じる心が、屠自古を生かそうとしていた。
「許さぬ。お主はここで死ぬのだ。遺言を残す必要はない」
「酷ね」
「済まぬ」
「聞いても伝えない、と……私と貴女の関係はそんなものなのね」
「くどい!」
 布都は面を上げる。潤んだ紺瑠璃の瞳が細くなる。柄を両手で持ち、踏み込む。屠自古の喉を突かんとする。屠自古は身を沈ませ、布都の懐に潜る形で迫る剣閃を避けた。布都の手首を制し、剣を無力化しようと試みる。布都は慌てて下がり、廊下へ出た。屠自古は更に距離を詰める。布都に考える暇を与えるのは愚策であった。
 布都は直ぐさま上段に構える。屠自古を見下す冷めた瞳。光を浴びる銅剣。刃が振り落とされる。背筋に汗が伝う。瞬間、屠自古は無意識のうちに大きく後方に下がった。刃は空を切った。流れるように下段に構えた布都は屠自古を睨みながら、切に願う。
「大人しく斬られてくれ」
「……断る」
 屠自古は肩で大きく上下させる。屠自古は自身の行動に戸惑いを隠せなかった。布都を見据える。布都の次に備える必要があったが、頭は下がった理由ばかりを探していた。あのまま距離を詰め、柄を取れた筈だ。布都の決断の速さに、戦いたのだろうか。そうであったとしても、あの状態で下がるのは愚行だ。保身に走った。危険を冒してでも生きようとしなかったことは、千載一遇の機会を逃したことを意味する。
 屠自古の行動はもう読まれていると考えてよい。布都は屠自古を誘うであろう。取れるか取れないか絶妙な距離を保ちながら、攻めるに違いない。
 その時、畳に重みが加えられ、鈍く軋んだ。屠自古は頭を切り替えた。銅色の刃が右から胸に目掛け飛んで来る。
「済まぬ」
「……は?」
 そんな純粋な疑問が屠自古の口から零れた。屠自古は布都を見る。布都の右手は剣首を持っている。それまでは鍔に触れない程度の所を持っていた。布都は強引に、距離を伸ばしたのだろう。一瞬、右手を鍔近くから離し、剣首を掴んだのだ。そうすれば距離は伸ばせる。
 屠自古は血で汚れた柄を見ながら思う。布都のこの行動は本心からなのだろうか、と。


     10

 痛みはない。屠自古の胸目掛け飛んで来た剣は、二人の女の手により止められた。布都を押さえ込むのは、鑿で髪を束ねている不思議な女であった。青い髪は雲のように流れる。柳のように細い眉に、芙蓉のような顔。纏う雰囲気は嬌姿だった。屠自古達を見る澄んだ紺青の瞳はどかか不満そうだ。女は口を開ける。
「放っておいても良かったでしょう?」
「そういうわけにはいきませんよ」
 屠自古に背を向け、刃を掴んでいる女が応じた。萱草色の髪に柔らかい物腰。痩せこけた今にも折れてしまいそうな痩躯。
「豊聡耳様がそう仰るのでしたら、そういう事にしておきましょう」
 嬌笑が屠自古の頭に響く。女のとある言葉が屠自古の心を掴んで放そうとしない。屠自古は呟く。
「豊聡耳……」
 屠自古に背を向けていた女は、振り向く。金色の瞳が屠自古を見る。その瞳の奥には、不気味な色が見え隠れしていた。女の顔には照れたような笑みと困ったような笑みが混在している。
「貴方にそんな風に呼ばれるとむず痒いものがありますね」
「太子、なのでしょうか?」
「屠自古、少しだけ待ってください」
 神子は布都の方を見る。
「太子様、何故! 何故、邪魔を!」
 女の下で布都は叫ぶ。神子は少し厳しい声で答えた。
「この独断は、誰も望んでおりません」
「七星剣を勝手に持ち出すとは何事?」
「青娥、少し布都を頼みますよ?」
「分かりました。こうなった以上、彼女を無視して進めるのは不可能です」
 神子は屠自古の方に向き直り、言う。
「少し話したいことがあります。聞いてくれますか?」
「それは、この事に関することなのでしょうか?」
 屠自古は青い女に目を遣った。女は微笑む。屠自古はこの女から感じる邪な気配を好めなかった。
「全てです。全てを話します。布都の行動の意味。青娥の正体。そして、私のこと。聞きますか?」
 神子は屠自古に青白い手を伸ばす。屠自古はその手を握った。
 神子と屠自古は別室に移った。影が部屋の殆どを埋め尽くしていた。神子は座り、静かに告白する。
「結論から言いましょう。私の命は僅かです」
 屠自古は突然のことに驚きを隠せず、感情的に叫んだ。
「どういうことですか! あの女が何か企てているのですか!」
 神子は落ち着いてくださいと窘め、淡々と続ける。
「これは私が自らの意志で選んだ結果です。屠自古、あの女は霍青娥という異国の女です」
「そんな女が何故、太子と共に?」
「青娥は道士なのです。私に道教というものを教え、崇めさせた張本人です」
「太子は仏教徒では?」
「あくまでそれは、表向きの話です。屠自古は思ったことありませんか? 大地は神々の時代から変わらず、海は水を湛えている。
 だというのに何故、人間は死を受け入れなければならないのか、と」
「そのように高尚なことは思ったことありません」
「青娥は言いました。『道教は自然と一体になることで仙人、つまり不老不死を実現することが出来る』
 私にとって非常に魅力的でした。しかし道教は、自然と一体になる修行をすれば誰でも仙人になれるのです。これでは国が安定しません。そこで青娥は表向きは仏教を広め、権力者は道教を修めればよい。そう提案したのです」
 屠自古の理解出来る範囲での出来事だった。しかし納得出来ない。
「太子様は、その、得体の知れない女の囁きを受け入れたのですか?」
「はい。ですので、私の命は長くありません。酷使したようです。私と布都は、そろそろ長き眠りに就きます。青娥の言う、不老不死の仙人になるのです」
「布都と密会していたのは、そういう理由なのでしょうか?」
「はい」
 神子と布都が道教に染まるのを見て、怒りを覚える。何故、自分だけ取り残されたのであろうか。屠自古は拳を握り、本音を打ち明ける。
「何故、私に何も言わずに一人で決めたのでしょうか? そんなの、布都と変わりません!」
 神子は冷めた目で、あの女のように怪しい色をした目で屠自古に言う。
「私は言いました。取り残される、と。その忠告を無視したのは屠自古自身でしょう?」
「ならば、今! 私も共に眠りに就きます!」
「道教を嗜んでいない屠自古に、その資格はありません」
 一蹴された。厳しい物言いである。屠自古の怒りは急速に冷やされた。間違ってるのは屠自古の方なのかもしれない。神子は、それに、と言葉を付け加える。その目から怪しさは消え、いつもの変わらない温もりがあった。
「この術が必ずしも成功するとは限らないのです。成功の鍵を握っているのは青娥です。そんな危険なことに、屠自古を巻き込みたくありません」
「そう、ですか。ふ、布都が私を殺そうとしたのは、布都の都合なのでしょうか?」
「彼女なりの優しさなのかもしれません。もしくは、彼女の利己が招いた災難です」
 二人の間に短い沈黙が降りた。神子は小さく首を横に降った。
「いや、訂正しましょう。
 布都は恐らく、自分たちを守る者がいなくなることを憂い、屠自古にその役目を担ってもらおうとしたのでしょう。布都は青娥を信じるか屠自古を信じるか天秤に掛けたのだと思います。結果、屠自古を選んだ」
「私を守り神にしようと……」
「不可能なことではありませんよ。道術には、死んだ者の魂を蘇らせるというものがあります。布都はそれに加え、この国にある未練が残っていれば現に姿を現すというものも利用して、屠自古を蘇らせようとしたのです」
 約束を守られなければならないという義務は、布都に殺されたことにより果たせなくなる。布都は屠自古のそんな思いを利用したのだろうか。
 屠自古は布都を評する。
「阿呆ですね」
「度が過ぎましたが、部下としては優秀だと思います」
 屠自古は布都の策を知り、思う。人ならずものになっても、人の世に住める。そうなれば、約束は一生守られるのではないだろうか。屠自古は神子に一つ、提案してみることにした。
「太子、一つ、約束してほしいことがあります」
 神子は首を傾げる。
「……約束?」
「はい」
「何でしょうか?」
 屠自古は笑顔で言う。
「私はあの約束をいつまでも覚えています。だから必ず私の元へ帰って来てください」
 神子は驚いたように大きな目を更に大きく見開かせる。それから沈黙が生まれた。屠自古はじっと神子の瞳を見つめる。神子は小さく息を吐き、呆れたふうに笑う。
「破ってもいいと言ったのに貴方は……。分かりました。必ず帰って来ます。だから必ず、この国に在ってくださいね」
 屠自古は決意した。亡霊になろうと。


     11

 布都は正座をし、青娥の言葉を受けていた。
「貴女が彼女を殺めると、大事になるの。分かる?」
 青娥の言葉は正しい。屠自古が殺されれば、間違えなく大事になる。それは布都以外の者が殺せば、という限定された話になる。布都は自信満々に答える。
「そう言うでない。表沙汰にせん自信はある」
「こうやって止められている人が言っていい台詞じゃないわね。それに、貴女が殺めれば、豊聡耳様はどう思うのかしら?」
「太子様を持ち出すとは、お主、卑怯者だな?」
「卑怯でも結構。彼女の首を刎ねようとしたのは、何故?」
「彼女彼女と……。蘇我屠自古という名だ」
「そ。何故?」
「言えぬ」
 布都は即答した。
 屠自古を殺そうとしたのに理由がないわけではない。ただ、青娥に言う気が起きなかった。青娥の瞳から漂う厭世的なものを、布都は快く思えない。青娥は神子の言葉に耳を傾けるが、布都の言葉にはそうではない。布都が本当のことを言ったところで、青娥は否定するだけだ。それならば、言わない方がいい。秘密裏に事を進める方が安全だと思う。
「言わないのならば、当ててみせようかしら?」
 青娥は口元に微笑を浮かべ、軽く言う。布都はその余裕な笑みに怒りを覚える。
「当てられるか?」
「ええ。貴方は私を信用していない。そうでしょう?」
 布都の目を覗き込む青娥の目が怪しく光る。布都は思う。この女は蛇のような女だ、と。布都は正直に答えることにした。
「うむ。信用していない。お主は蛇のようだ。太子様を唆す、蛇だ」
「だから貴方は、蘇我屠自古という自分が一番信用出来る者を亡霊にし、私と自分が寝ている間の監視役にさせようとした。どう?」
「お見事。が、お主、阿呆だな」
「貴方に言われたくないわ」
 布都は毒を吐く青娥に告げる。
「我が願いは結局のところ、太子様が全て。屠自古もそのための駒にしか過ぎぬ。
 屠自古の居ない世はつまらぬ。太子様は悲しまれる。何より、太子様の隣は屠自古。それは人間だろうと亡霊だろうと変わらぬ。邪魔をするのならば……いや、お主は何もせんか」
 布都はそう言いながら、嫉妬で焼き焦げそうな胸の痛みに耐えていた。神子にとって屠自古は特別であった。修行の間、何度屠自古のことを聞いたか布都は覚えていない。毎日のように神子は笑顔で言う。屠自古が、と。布都がそれに嫉妬をすれば神子はこう言った。
『布都は今、私と共に居るではありませんか。屠自古はただ待つことしか出来ないのです。じっと一人で、いつでも、いつまでも……。それは悲しいことだと思いませんか?』
『そうは仰るが、そういう選択をしたのは屠自古自身ではないか。太子様は御自分で仰ったことをお忘れか?』
『覚えています、覚えていますとも。ですが少し考えてみてください。私や布都が長き眠りから目覚めた時、私達を知っている者がいないのは悲しいことではないでしょうか? 一人ぐらい、いてもいいでしょう』
 神子にとって、屠自古は布都が考えているよりも特別な存在であることは、神子の口振りから明らかだった。そう考えると、屠自古抜きで話を進めるとは布都にとって有り得ないことだった。恐らく、布都が動かなくても、神子がもっと上手くやったであろう。
「……そ。貴方、屠自古を亡霊にして、後悔しないの?」
「一体どこに後悔することがある」
 青娥の懸念を布都は理解に苦しんだ。神子も屠自古も望んていることなのに、一体何を後悔すればいいのだろうか。
 青娥は溜息を吐き、提案する。
「貴方達が寝ている間、私がその亡霊の面倒を見ましょう」
 青娥の提案に布都は目を輝かせて叫んだ。
「お主、青娥ではないな!」
 青娥は呆れ返ってたのか何も言わなかった。


     12

 屠自古はその夜、布都の元へ訪れた。この心が揺るがないうちに、布都に話しておきたいことがあった。
 置き灯籠の明かりが、二人をぼんやりと照らす。屠自古は布都に言う。
「太子から聞きました」
「我なりに考えての行動なのだ」
 布都は恐る恐る、屠自古の顔色を窺うように見上げる。その目から悲しい怒りが読み取れた。屠自古への怒りだろうか、布都自身に対する怒りだろうか。
 屠自古は思う。あの時、屠自古は布都に殺されてもよかったのだろうか。屠自古は不安定な女であった。謙遜して愚女と言ったが、謙遜する必要はなかった。
 布都は眉を八の字に歪め、震える程強く拳を握っていた。布都は熱い声で、あの時のことを屠自古に思い出せる。
「我は、あの時、本当に屠自古を殺そうと思っていた。太子様のため、という尤もらしい理由を使って……! 我は、太子様の思いを利用して、自身の卑しい感情を悟られないようにしていたのだ」
 屠自古は静かに布都の叫びに耳を傾ける。言いたいことは屠自古もあったが、布都が全てを吐き出してからでも遅くはない。布都と屠自古がこのように向き合うのは、これで最後なのだ。次出会うのはどれ程先のことだろう。
 ゆえに屠自古は最後まで、逃げずに、正面から布都の気持ちを受け止める。
「屠自古が殺せば、太子様は我をかなり責めるであろう。避けては通れぬ道だ。一時的な痛みだ。が、我はそれを甘んじて受ける気でいた。それから存在する快楽に身を委ねたいがために!」
 布都の瞳から涙が落ちる。頬を伝い、拳の上で弾けた。布都は涙を拭い、続ける。
「屠自古は死ねば、太子様は帰る所を失う。そうなれば、我の所へ来るであろう! 公私共に、太子様をずっと支えることが出来る! それが……そんなことが、我は何よりも嬉しかったのだ! 我には出来ぬことだから……我にはっ!」
 布都の悲痛な叫びを聞きながら、神子は布都を選んだ理由を理解した。布都は正直者であった。ゆえに神子に素直に思いを伝えることが出来たのであろう。
「太子様は尸解仙になりたがっておられた。道教の最終目標である不老不死に。しかし太子様は恐れ、躊躇いを覚えていた。曰く、成功するか不安であると。我は迷わず申した。我が先に眠ろうと! 太子様変わらぬ存在になれる! ……それが何よりも嬉しかった」
 布都は涙で夥しく濡れた目で屠自古を見つめる。震えた唇からそれ以上言葉は零れる気配がない。屠自古が不安定な存在であるように、布都もまた同格なのだろう。布都は神子と会いながら、どんな気持ちだったのだろう。ちらつく屠自古の影をどんな目で見ていたのだろうか。
 屠自古は思う。屠自古も布都も変わらない。互いが互いに神子のためにと思い、行動した結果がこれだ。
 布都の泣き声だけが部屋に響き続ける。布都の言葉を受け、屠自古は静かに思いを吐露する。
「私も布都が羨ましいと思う。今も思っている。私には頭を使い、感情的に意地を通すような真似は出来ない。布都にとっては独り善がりの行為かもしれないけど、それが太子の助けになっているのが、すごく羨ましい。すごく……」
「我はただ、誰よりも太子様の側に仕えたいだけじゃ。お主を殺そうとしてでも、な」
 布都は力なく笑う。屠自古も笑う。
「殺してもいいわよ」
 布都は驚き、叫ぶ。
「正気か!」
「ええ。そうすれば、私の望みも布都の望みも叶う。引く理由がないわ」
 布都は屠自古の本心を探ろうと質問を投げる。
「……太子様から聞いたのか?」
「貴方は正直だから、すぐに分かるわ」
「青娥も屠自古も、我のことを侮っておる!」
「だったら、侮られないように私を亡霊にして」
 布都は一呼吸の後、自信満々に答える。
「任せよ! 我と太子様のこと、頼むぞ」
「布都も、太子を頼むわ」
「うむ。屠自古よ、飲むか?」
「飲みましょう」


     13

 屠自古は未だに不気味な浮遊感に慣れないでいた。人と亡霊の違いにまだ戸惑う。八角堂の屋根の上に立つ屠自古は苦い顔で隣を見る。隣に青娥が座り、楽しそうに微笑を浮かべている。
「良かったじゃない。これでどこでも行けるわよ?」
「この身体の時点で、人間らしい制約はないでしょう? 布都の力不足が原因なのでしょうか?」
「貴方の願いを叶えたのでしょうね」
 亡霊となり蘇ったのは良いことだ。しかしそれまであった筈の足はなくなり、先が二又になっている。
 布都が最後に言った言葉が蘇る。
『屠自古、青娥はあまり信用するでない。あれは蛇ぞ』
『蛇?』
『うむ。上手く己の利益に繋がるように動く。飲み込まれぬように注意するのじゃ。良いな?』
 布都に言われなくても、屠自古は青娥を全面的に信頼する気はない。宝玉のように輝く青い瞳の奥に存在する暗い、懐疑的な色。屠自古の目は確かにその色を捉えていた。嬌笑の裏に上手く隠した能面のような素顔。言葉の節々から感じ取れる出し抜こうとする気配。
 青娥と利害関係が一致しているから行動を共にしているだけだ。神子と布都が目覚めれば、用はない。そう目覚めれば用はないのだ。
「青娥、太子と布都はいつ目覚めるのでしょうか?」
「その時が来れば、必ずや目覚めるわ」
「その時、とは?」
「いつでしょうね。それは私は知らないわ。だって私には関係のないことですもの」
 と、青娥は笑った。屠自古の顔はすぐに険しくなった。その口振りはまるで、神子と布都を騙したかのようだ。不老不死。そんな甘い言葉で神子を誘った。屠自古は青娥を睨み付け、問う。
「術は成功した?」
「ええ」
「ならば何故、太子と布都は目覚めない?」
「それは私は聞いていないの。私が知りたいことなのよ」
「本当?」
 依然として余裕の笑みを浮かべる青娥に、屠自古の疑心は増す一方だった。青娥は何か、屠自古に隠していることがあるに違いない。
言わないのあれば、吐かせるしかない。
 屠自古が動こうとした時、青娥が言う。
「んー、恐らくだけれど、仏教が関係しているじゃないの? 安泰した世に優れた指導者は不要でしょ。世が傾いた時、聖人を求められた時、復活すれば、不老不死の豊聡耳様は一国を永遠に治世出来る。民が求めたゆえ、反対する者はいない。素晴らしいわね」
 青娥の言葉は、屠自古の怒りを増幅させるものでしかなかった。青娥個人に対する怒りや不信だけではなく、復活を妨げる仏教と民にも向けられる。
 後何年、何十年、何百年屠自古は待てばよいのだ。この亡霊となった存在で、神子も布都もいないこの国で後どれ程、待てばよいのだ。この痛みにどれだけ心を晒せばよいのだろうか。
 それもこれも、全てはこの女がもたらしたことだ。瞬間、青娥は屠自古の隣から飛び立つ。屠自古は青娥の後を追う。すぐ下に布都と神子が眠る場所で戦うのは、二人の身に傷が走る可能性がある。
 青娥は屠自古と大きく距離を取る。危機感を覚えたのだろう。腐っても仙人というわけだ。宙に浮かぶ、青娥は眉を顰める。
「それはちょっと、おかしいんじゃないの?」
「原因は貴方でしょう?」
「聞く耳を持たない者は嫌いよ?」
 青娥は銅矛を取り出し、構える。右手で柄の先端を持ち、左手で中央部を持つ。
 今の屠自古は霊体の身。人間の作りし物がこの身に通じるとは考えにくい。が、相手は仙人。それ相応の術は体得している。つまり、屠自古の身を切れる剣に昇華している可能性はある。
「貴方がそういう態度を取るなら、私も加減はしないわ」


     14

 霍青娥は蘇我屠自古から発せられる禍々しい気配に、少しだけ恐怖を懐いた。亡霊が怨霊に変わり、青娥を襲うのならば容赦しない。青娥の目的はまだ終っていないのだ。ここで、途中から入って来た女に、計画と関係のない女に邪魔をされてはならない。
 青娥は怨霊を退治したことはない。する気が起きなかった。青娥はそういう存在を生み出したりする側なのだ。対処は青娥の専門ではない。が、こうなった限り、狩るしかない。
 青娥は槍先を正面、屠自古の胴へ向ける。幸い、屠自古の間合いの外から攻撃を仕掛けることが出来る。比較的安全といえる。不安があるとすれば、屠自古がどういう存在なのであるかということであろう。
 青娥は動く。が、視線から読まれていた。屠自古はするすると避け、容易に青娥の懐に入る。青娥は舌打ちを零し、すぐさま薙ぐ。これも手応えがない。屠自古は揺蕩う。煙のようであった。
「逃げないでくれない? 一撃で終るから安心して」
 屠自古の血走った目を見て、青娥は短く一息吐いた。青娥の言動はどうやら、屠自古の恨みを買うだけのようだ。
 気を抜いて何とかなる相手ではない。宣言通り、一撃で終らせた方が得策だ。
 青娥は肩口から滑り出すように槍を投じた。狙いは先程と同じく屠自古の胴。同時に青娥も駆ける。髪を束ねている鑿を持ち、屠自古に刺さんとする。その時、布都の言葉が脳裏を過った。
『我が願いは結局のところ、太子様が全て。屠自古もそのための駒にしか過ぎぬ。
 屠自古の居ない世はつまらぬ。太子様は悲しまれる。何より、太子様の隣は屠自古。それは人間だろうと亡霊だろうと変わらぬ。邪魔をするのならば……いや、お主は何もせんか』
 今、青娥は何をしようとしている。屠自古を始末しようとしている。それは、布都との約束を破ることになるのではないだろうか。布都自身は約束と思ってはいないかもしれない。しかし、青娥にとっては、十二分に効果がある。布都とのやり取りの最後、青娥は何と言っただろうか。
『貴方達が寝ている間、私がその亡霊の面倒を見ましょう』
 青娥は全理性を総動員させ、止まった。鑿はそれまでの青娥の意志の通り、屠自古の首筋近くで止まる。槍は彼方を目指す。
 青娥は憎悪に染まった屠自古の目を見た。嗤う屠自古を見た。屠自古の腕が青娥の腹を穿とうとする。気付いた時には遅かった。


     15

 青娥の腹を射ろうとした屠自古の手には確か肉と骨と血の感触がある。しかし青娥ではない。青娥と屠自古の間に一人の少女が割って入って来た。額に札を貼った少女。鼻が曲がりそうな腐臭がする。屠自古は顔を歪めながら、この出来事に強烈な既視感を覚えた。
「……布都?」
「……ふ、と? 違うぞー。芳香」
 芳香と名乗る少女は、唇を尖らせる。腹を貫かれているのに芳香は痛がる素振りを見せない。屠自古は芳香の腹から手を抜いた。べっとりと付いた赤黒い血。
 青娥の声が飛ぶ。
「芳香! 大丈夫? 痛いところはない?」
 芳香は青娥の方を向き、言う。
「平気、平気」
「そ、そう」
 青娥は安堵したのかゆっくりと息を吐き、屠自古に向かって言葉を投げ掛けた。
「屠自古、よく聞いて。彼女は、宮古芳香。私が使役しているキョンシー。私や貴方と同じように、この夢殿大祀廟を守っている。ここまで整理出来た?」
「まぁ、何とか……」
 青娥は芳香の前に出て来る。暗鬱な目が屠自古を見る。
「よかった。それじゃ、落ち着いているわけね?」
「ええ少し」
「それじゃ、大切な話をするからよく聞いて」
「私は豊聡耳様が復活すればそれでいいわ。屠自古も布都もどうでもいい」
 かっと怒りそうになった。しかし、それは布都も変わらないことを思い出し、怒りは沈んだ。
「私は布都と、貴方の面倒を見ると約束しているの。だから貴方を殺せないし、死なない」
「死なないと断言出来る根拠は何?」
「私を誰だと思っているのかしら? 話を戻すわよ。私が術を失敗したということは考えられない。自分の力量は私が一番知っているわ。信じられないのなら、貴方は豊聡耳の奇跡を信じなさい」
 青娥は続けて語る。
「待てない貴方に一つ約束をしましょう。民草が聖人を求めた時、豊聡耳様達は復活する」
「何年待てばいい! 太子が布教した仏教が終るまで何年掛かる!」
 屠自古は何もせずにただ神子と布都の復活を待つことが出来ない。あの時は何もせずに流され、後悔を覚えた。今も同じように何もしないのは我慢ならない。
 青娥は邪悪な笑みを浮かべる。
「なら、話は早いじゃない。仏教が妖怪の味方であるように思わせ、仏教への信頼を落とす策を取ればいい。大丈夫。亡霊の屠自古がいて、キョンシーの芳香がいて、邪仙の私がいる。可能よ。それに……」
「それに?」
「この世界には、忘却の彼方に辿り着ける秘境があるらしいの。神隠しに遭った者はそこに流れ着くらしいわ。だから、最悪、そこに行ければ復活させられる」
 青娥は穏やかに笑う。
「約束よ。必ず、豊聡耳様と布都は復活する」
 約束。その響きが波のように屠自古の心に広がる。
 屠自古も、約束があった。大切に仕舞った、古い約束だった。脆い約束は、細い蜘蛛の糸のように繋がっていた。神子とのたった一つの約束。
『どれほどの日が開こうと、誰とどんな時を過ごそうと、屠自古の元に帰ってくるから、その時は笑って私を迎えてほしい』
 神子は戻って来た。ぼろぼろになった身体で。神子は約束を果たしている。ならば、信じるしかない。
「青娥」
「何かしら?」
「太子は戻って来るわ。私と約束したから」



     16



 洞窟には、一条の光の筋となった神霊があった。洞窟の奥地にある扉を開ける。太陽に集まる神霊はまるで星空のようだった。青娥はそんな神霊を一瞥して、笑顔で胸を張る。屠自古は呆然とその神霊達を見上げる。
「どう? 言った通りでしょ?」
 性がの言った通りに事は運んだ。否、運ばせた。神子の数々の偉業は疑われ、屠自古を始めとした五人と神霊廟は膨大な時間の波に呑まれ、その姿を一つの地に移した。
 ある者曰く、この地は幻想郷と名付けられた所らしい。
 屠自古は青娥の方に視線を移し、言う。
「それ、布都と変わらないわよ?」
「私をあんな阿呆と一緒にしないで」
「もう少し、なの?」
「ええ、もう少しよ」


     17



 豊聡耳神子は、困り果ていた。目の前には頬を膨らませた亡霊が一匹。その顔には先の戦いの傷が残っていた。神子は詫びなければならないことが沢山あった。亡霊、蘇我屠自古は素っ気ない返事を返すばかりだ。
「負けてしまって済みません」
「いいですよ、別に」
「復活に時間が掛かってしまって済みません」
「復活してくれたからいいです」
 詫びる気持ちと同じ程、感謝したいこともあった。屠自古の表情も調子も何一つ変わらない。
「神霊廟を青娥達と共に守っていただき、感謝しています」
「何もせずに後悔するのは嫌ですから」
「私と布都の復活を見守ってくれて感謝しています」
「布都との約束ですから当然です」
 神子は、屠自古がどういう言葉を求めているのかずっと前から知っている。分かっているのだが、躊躇っている自分がいた。屠自古との再会したのは、神子が思っていたよりもずっとずっと時が流れた後だった。千年振りの再会。
 たった一つの言葉を伝えるには、あまりにも期間が空き過ぎている。それでも屠自古はその言葉を求めている。神子の責めるような視線とむくれた表情。そして屠自古の声なき声。やはり、言わずに帰る選択は出来ないようだ。
 神子は意を決して屠自古に言う。
「ただいま帰りましたよ、屠自古」
「おかえりなさい、神子様」
 屠自古は溢れた感情を我慢しきれず、神子の胸に飛び込んだ。



                了