・亡霊について
死者の霊のうち、死んだ事に気づいていないか、死を認めたくないという念が強すぎると、成仏できずに亡霊となる事がある。
亡霊は幽霊とは違い、生きていた頃の姿をとり、触れる事も話す事も出来て、傍目には人間と区別が出来ない。
体温も低くなく、また、人間以外の生き物から亡霊になる事もない。
多くの亡霊が河を渡らずにそのまま顕界に留まるか、冥界や地獄に渡ってしまった者である。
そのままでは輪廻転生する事は絶対にない。
一旦亡霊になってしまうと、目的を成就するか、自分の肉体が供養されるまで成仏する事はない。
(以上、東方求聞史紀より抜粋)
私は亡霊だ。
生きてもいない。死んでもいない。中途半端な存在だ。
私はどうしてここにいるのだろう。そんな疑問が、私の頭の中に、浮かんでは消える。消えては、浮かんでくる。
先の異変からしばらく時がたった。異変を起こした当事者が異変というのも変な話だが、ここ幻想郷では異変は異変というらしいので仕方がない。郷に入れば郷に従えともいう。私たちは幻想郷の一員となったのだから、幻想郷のきまりに従うのは当たり前なのだろう。
私は亡霊だ。
私には足がない。
足がないこと、それ自体には何の不満もない。むしろ暮らしやすくなったぐらいだ。外出するとき、履物を気にすることがなくなった。この事実だけでも亡霊になった価値があるくらいだ。悩みは少ない方がいい。
悩みは少ないほうがいい。当たり前のことだ。お気楽に生きるのは限りある人生を無駄にしているような気がして気分のいいものではないが、かといって悩みすぎて生きるのも同じように人生を無駄にしているような気がする。お気楽に生きるのも、悩みながら生きるのも、人生を無駄にしているという一点においては同じようなものなのだろう。
そして、今。
私は悩んでいる。
それは、せっかく甦ったこの人生を無駄にしているのと同じことだった。
■■■■■
太子様の周りには、いつも人があふれている。
昔も、今も、それは変わらない。
私はそんな太子様を見つめているだけで幸せな気持ちになれる。
さまざまな人が太子様の周りに集まっている。老人も、子供も。青年も、大人も。男も、女も。善人も、悪人も。
そのすべての人が好き勝手にものを言い、そのすべてを太子さまは受け入れて受け答えをしている。
よく、頭の中が混乱しないものだ。私にはとても無理な相談だ……まぁ、私に話しかけてくる物好きはそんなにたくさんいないけれど。
「屠自古」
その例外がきた。
私は振り返ると、どんよりとした目で私に声をかけてきたその例外にむかって返答を返す。
「何か用なのですか、布都」
「用がなければ声をかけてはいかんのか」
すぐに涙目になるこの者は、物部布都という。私はにこりともせず、突き放すように答える。
「それで、何の用なのですか」
聞いてみると、大した用事でもなかったので、適当にあしらうと、布都は「ではそうするかの」といって去って行った。私はまた一人になり、ため息を一つついた。
別に、布都に意地悪をしているわけではない。嫌いなわけでもない。好きかと問われれば返答に窮するけれど、嫌いかと問われれば「それは違う」といえる程度の仲だ。ただ、今は少し、話をしたくない気分なのだ。
私は今、悩んでいる。
悩んでも仕方のないことなのかもしれないけれど、悩んでしまっているのだから仕方がない。
私だって、悩みたくて悩んでいるわけではない。悩まずに生きていけるならそれが一番なのだけど、ひとたび悩み始めてしまったらそれをあやふやにしたままで生きていけるほど調子よく私は出来ていない。
私は、自分の足を見た。
足はない。亡霊の私には、まるで白い大根のような、尻尾のような二股のそれがあるだけだ。
私はまた、ため息をつく。
私は、布都が嫌いなわけではない。それは先ほどいった。嫌いなわけではないのだが……どうしても、比べてしまうのだ。
私も、太子様も、布都も、ひとたび眠りにつき、そして先日、復活をした。その復活に際していろいろとあったけれど、今は割愛する。幻想郷に異変はつきもので……別に珍しいことでもなんでもないのだから。
私は足がない。
私は亡霊だ。
亡霊であることに問題はない。問題なのは、私だけが、亡霊なのだということだ。
太子様も。
布都も。
二人とも、「尸解仙」として復活された。私とは、違うのだ。
このことが、私の悩みなのだ。
太子様は、すべての欲望から解き放たれた存在だ。昔からそうだったのに、尸解仙となられた今となっては、「無為自然」を至上とする道教においては、欲望から解き放たれた超人……すなわち、「仙人」そのものになってしまわれたと言っても過言ではないといえる。
(太子様)
私は、太子様が好きだ。大好きだ。好きで好きで、仕方がない。世の中のほかの全てが壊れてなくなったとしても、太子様さえいてくれるのならそれでいい。それだけで私は幸せだ。世の中の他の全ての中には、当然私自身だって入っている。太子様のためなら、私だっていらない。私だって死んでもいい。
だけど。
(私だけ、亡霊だ)
そんな思いがあるからなのだろうか。私の中に「欲」があるからなのだろうか。愛執も恨みももったまま、欲と業に囚われて、私は復活してしまった。
(私は、太子様が好きだ)
何度でもそう思う。何回でも、そう思う。思わないときはない。私の体はこの思いで満たされているし、頭のてっぺんから足の先まで……今はもう足はないけれど……太子様への思いを捨て去ることなんてできるわけがない。
だからこそ。
こんな欲にまみれた私は、太子様の傍にいるのは、不適切なのではないだろうか。
私は悩んでいる。
私は悩んでいる。
私は悩んでいる。
頭をかきむしり、唇を噛み、両手で肌をぎゅっと握りしめ、目を爛々と輝かせ、息をはぁはぁとたらしながら、私は悩んでいる。
人前では悩まない。
こんな姿を見せたくない。
人前では飄々としておきたい。
私は別に、悩んでなんかいませんよ、と思われたい。
これはすべて、「欲」だ。
(私は太子さまが好きだ)
それも、「欲」だ。
私は。
私は。
ふさわしくなんか、ない。
でも、欲を捨てることなんて、出来はしない。
ほかの欲なら、捨てることはできる。
請われるならば、食欲も捨てよう。
請われるならば、睡眠欲も捨てよう。
請われるならば、性欲も捨てよう。
請われるならば、射幸心も捨てよう。
請われるならば、なんでも、欲をすてよう。
けれど。
(私は、太子様が、好きだ)
この欲だけは消すことが出来ない。
風が吹いてきていた。
気が付くと、私は、霊廟を飛び出していた。
■■■■■
別に、あてがあったわけではない。
本当に、たまたま、何の気なしに。
ふらふらっと出てきたままだ。
気の向くまま、足の向くまま……まぁ、何度も言うようだけど、私には足はないのだけれど。
適当に、さまよっていた。
亡霊がさまようのは自然のことだろう。
地縛霊ではないのだから。
あてもなく彷徨ってる中で、私は、とある人のことを思っていた。
いや、「人」と表現するのは間違いだろう。あれは「人」ではなかったのだから。
西行寺幽々子。
私と同じ、亡霊。
先の異変でであった彼女は、飄々としていて何を考えているのかは分からなかったけれど、それでも、私たちの目的を察して、自分の従者……あるいは知り合いの異変解決家を派遣して、それを阻止しようとしていた節がある。
(あれは、只者ではない)
私にはわかる。
私は常に、太子様と接している。太子様とあの亡霊はまったく違うものだけれど、ひとつだけ共通点をあげるとすれば、それは「私はかなわない」と思わせられる存在だということだろう。
あの亡霊は、「天衣無縫の亡霊」と呼ばれているらしい。
(今はもう)
争う必要もなくなった相手。
私と同じ亡霊。
(会ってみようか)
いくあてがあるわけでもない。
目的があるわけでもない。
私は、西行寺幽々子のところにいってみることにした。
■■■■■
「あらあらあら」
白玉楼の庭の中、綺麗に手入れされたその庭の中で、西行寺幽々子はにこりと笑って私を迎え入れてくれた。
そのふるまいは自然なもので、動きのひとつひとつに無駄がない。おっとりとしているように見えて、隙もなにもない。笑っているように見えて、笑っていないようにも見えて、すべてを見透かされているようにも見えて、その実、何も考えていないようにも見える。
ゆったりとした服装で、動くたびにふわぁっと服が舞うように見える。
その後ろ、正確には庭のなかほどで、物言わず箒をもって庭を掃いている従者の姿が見える。おかっぱ頭で生真面目で、こちらを見ていないようでありながら、その実、もしも私が彼女の主人に手を出そうとでもしたら、すぐに飛び込んでこれるように意識を集中しているのもわかる。
綺麗な庭だ。
ここは、時間の流れが緩やかだ。
私たち3人以外の人の姿もない。
私は、もう一度、尋ねてみることにした。
欲望から離れて、太子様にお仕えするには、どうすればいいのだろうか。結果として、仙人になるどころか、亡霊として復活してしまった私は、はたして太子様にふさわしい存在なのだろうか?
私の問いに対して、西行寺幽々子はすぐには答えなかった。
「これが美味しいのよね」
そういうと、ちょこんと座り、従者の用意してくれていた饅頭をほおばっていた。その姿は幸せそのものではあったのだけれど。
(欲望から解き放たれている……わけではなさそうだ)
と思わざるを得ない。
どう考えても、「食欲」から抜け出してはいないのだろう……そして、それはそれでいいことなのだろう。
「自然って、なぁに?」
饅頭をほおばりながら、西行寺幽々子は問いかけてきた。私にとって意外な質問であったので、私はすぐに返事をすることはできなかった。
「道教って、無為自然を至上とするのよね」
「……」
「なら、そもそも、その自然って何なのかしら」
西行寺幽々子はそういって、私を見つめてきた。顔は笑ってはいるが、目は笑ってはいなかった。突き刺すような、視線。見抜かれるような、視線。
「あなたの太子様には、本当に、欲はないのかしら?」
あなたの、と言われたことが、少し、嬉しかった。
本当にそうならば、どれだけいいことか。
「死を恐れて道教に傾倒する……それって欲望じゃないかしら?生への執着なのではないかしら?」
……まぁ、私には、死の概念が分からないけど……と、ぽつりとつぶやいたようにも聞こえた。聞けば、この西行寺幽々子は、死を操る程度の能力を持っているという。死が身近にありすぎて、逆に死を認識することが出来ないのだろうか。
「質問を変えるわ」
西行寺幽々子はそういうと、手にしていた湯呑をもちあげ、お茶を飲み始めた。「美味しい」と満足そうにいったあと、私を見つめてくる。
「あなたが、一番怖いのは、何?」
「……私が?」
「そう、あなた」
口元に笑みが浮かぶ。
「死ぬのが怖い?」
「私は…」
別に、死ぬのは、怖くない。一度死んだ身であるし……というよりも、すでに亡霊の身であるのだから、死ぬという概念すら私には当てはまらないような気がする。
「怖くはないわよね、亡霊なのだし」
「……」
私は答えなかった。そんな私を気にするふうもなく、西行寺幽々子は言葉を続ける。
「もしもあなたが、本当に欲と業から解き放たれたとしたら……あなた、成仏しちゃうんじゃないの?」
「成仏?」
「そう、成仏」
そういって、またお茶をすする。
「あぁ、美味しい」
西行寺幽々子は満足そうにそういうと、湯呑をそっと床に置いた。
「私は、妖夢の入れてくれた、このお茶が好き」
「……はぁ」
何をいっているのだろう?今は別に、お茶のことなんて関係がないではないか。今は、私の話を、私の悩みを聞いてくれているのではないだろうか?
「あなたは、なんのために、生きているの?」
「……」
「死ぬのは怖くないわよね」
「怖くはない」
「なら、何が怖いの?」
「私は…」
「人間にとって」
西行寺幽々子の表情が変わった。目を細める。笑ってはいるが、笑ってはいない。透き通った深淵。引き込まれるような、闇。
「死ぬってことは、存在がなくなるということ」
「……」
「私たち亡霊はすでに死んでいるから、死ぬことはないけど、人間にとって存在がなくなるのと同じことは、すなわち成仏」
「……」
「成仏してしまったら、私は、妖夢のいれてくれたお茶を飲むことができなくなる」
そういって、再び、湯呑を手に取ると、一口飲む。
白玉楼のかたすみに、桜の木がある。その桜の木を見ながら、西行寺幽々子は「成仏するのは嫌ね」とつぶやいた。
「私は、妖夢と離れるのは嫌」
「……」
「ならあなたは」
誰と離れるのが、嫌なの?
「私は…」
太子様と……神子様と……離れるのだけは……嫌だ。
「それにね」
庭では、従者である妖夢がせっせと掃除をしている。その姿をいとおしそうに眺めながら、西行寺幽々子はいった。
「そもそも、今となっては、あなたの大切な人……豊聡耳神子は、本当に仙人による世界の先導を望んでいるのかしら?」
「それは」
分からない。
太子様にとっては、私たちの心を覗くのは簡単なことなのかもしれないけれど、私たちが太子様の心を覗くことなんて出来はしない……そして、するつもりもない。
「私はね」
西行寺幽々子は、優しそうな瞳で、せっせと庭掃除をしている妖夢を眺めていた。
「世界なんてどうでもいいの。大切なのは世界なんかじゃない。大事な人がいてくれるから、その世界が大切なわけであって、世界があるから、大切な人がいてくれるわけじゃないじゃない」
「……」
「あの子の小さいころから、私は知っている。あの子のおじいちゃんだって知っている。あの子がね、何にもできなかったあの子が、一生懸命頑張って成長してくれている、そんな姿を見るのが……」
ふりむいて、笑う。
「私の、喜びなのよ」
「屠自古」
ふいに、私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
遠くに。
白玉楼の階段の向こう側に、私の大切な人の姿が見える。
「太子様、どうしてここに?」
「何をいっているんです」
豊聡耳神子が、太子様が、少し息を切らせながら、こちらに向かって歩いてくる。
「長い階段ですね」
「歩いて登ってくるのは大変だったでしょう?」
「一歩一歩、かみしめてのぼってきましたよ」
笑いながら問いかけてきた幽々子に対して、太子様も笑いながら答えてきた。
「さぁ、帰りましょう」
「……」
「帰りたくないのですか?」
「……」
「屠自古」
太子様は、微笑んだ。
「私のところに、帰ってきてください」
私は、立ち上がった……足はないのだけれど。
傍らで、座ったままで、西行寺幽々子がにこにこと笑っているのが見える。そうか、私が来た時にすでに、私の居場所を太子様に伝えていたのか。
(食えない人)
饅頭を美味しそうにほおばっているこの幽霊を見て、私はそう思った。
■■■■■
「太子様」
「なんですか、屠自古」
帰り道。
私はふと、尋ねてみることにした。
「太子様は、死ぬのが怖いですか」
「なにを当たり前のことを聞いてくるのですか」
そういうと、太子様は、私の額に額を合わせてきてくれた。こつんと、額があたる。
「怖いですよ」
太子様の顔がすぐ近くにある。私の頬が紅く染まる。
「死んでる間、1400年も、私は屠自古に会えなかったのですよ?……もう十分でしょう。これからは、ずっと、私の傍にいてくださいね、屠自古」
「はい!」
大きく返事をして、返事をして、返事をして。
私の頬に、涙がつたってきた。
そんな私をみて、太子さまは、少しおろおろしながら尋ねてきた。
「屠自古、どうして泣いているんです?」
「嬉しいから、泣いているんです」
私は、こたえた。
「生きてるから、泣いているんです」
私には、かつて、足があった。
私には、かつて、悩みがあった。
今は、私は、足がない。
今は、私は、悩みがない。
私は必要とされている。
私には、居場所がある。
私には、存在意義が、ちゃんとある。
こんなに嬉しいことはない。
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